夏木 花 / 第38話

第7話 言えないまま

 背中で、まだ名前が呼ばれていた。振り返らずに歩いた。声は石段のあたりで途切れて、そこから先は荷を運ぶ音だけになった。  門のところで、荷馬車の縄が締め直されていた。  行きに麦の袋を積んでいた場所に、空の籠が重ねてある。コルドが結び目を一つずつ引いて、緩んだものだけをほどいては締め直していた。馬は行きと違う馬だった。  村の男が二人、荷台の縁に手をかけて籠を押し上げていた。フェルドウィンが近づくと、二人とも手を下ろした。片方が腰を折りかけ、途中で止めて、隣を見た。隣も同じ格好で止まっていた。結局、どちらも中途半端な角度のまま籠に戻った。 「勇者様」 「フェルドウィンです」  男は頷いた。頷いただけだった。  もう一人が荷台から麻の袋を下ろして、両手で差し出した。村から持ってきたものだった。替えの上衣と、母が包んだ干し肉の残りと、縄が一巻き入っている。 「お預かりしておりました」 「……はい」  受け取ると、思っていたより軽かった。  門柱のそばに立っていた男が歩いてきて、袋の口を開けた。中を見て、また閉じた。それから元の場所に戻り、荷の数を数え直しはじめた。濃い色の服を着ていた。  村の男は、そのあいだ手を下ろしたままだった。  荷馬車の前から、ハーヴィンが回ってきた。帽子を手に持っている。村では、集い石の前でもかぶったまま喋る人だった。 「お勤め、ご立派でございました」 「……はい」  村を出る朝は、荷台を指して「乗れ」と言われただけだった。 「壇の上、遠くからでもよく見えておりました」 「道は」 「乾いております。行きの二日目のぬかるみも、もう引いておりました」  縄を確かめ終えたコルドが、荷台の陰から言い足した。 「馬も代わっております。帰りは三日で」 「麦の値も、思ったほどには落ちておりませんでした」  ハーヴィンは帽子の縁を撫でた。 「よい年です」  村を出る前は、値の話だけで集い石の前が半日潰れたことがある。ここでは、それが三言で終わった。 「お部屋は、暖かいところでしたか」 「はい」 「それは何より」  訊けることだけが、順に訊かれていった。  袋を渡した方の男が、思い出したように顔を上げた。 「鋤の刃は、どうでした」 「え」 「値を、見てくると」 「……見ていません」 「そうですか」  男はそれきり訊かず、籠の位置を直した。門の外は下りの道になっていて、轍が乾いて白くなっている。フェルドウィンは、その道をまだ歩いたことがなかった。  もう片方が、御者台の方を見てから言った。 「フェルドウィンさんは、いつ村へ」 「分かりません」 「そうですか」  男は、訊いたことを片付けるように籠を並べ直した。腰の剣に一度だけ目をやって、それについては何も言わなかった。  ハーヴィンが指を鳴らして、村にいたときと同じ調子でトラマルを呼んだ。トラマルは行った。ハーヴィンは首の横を二度叩いて、それから手を引いて、膝で拭った。 「……毛の抜ける時季ですな」 「そうですね」  トラマルはまだ座って待っていたが、誰も続けなかったので、フェルドウィンのそばへ戻ってきた。 「あの、ハーヴィンさん」 「はい」  ハーヴィンは帽子を持ち直して、待った。村では、フェルドウィンの言うことを最後まで待つ人ではなかった。 「村には、どう伝わりますか」 「触れのとおりに」 「触れ」 「昨日、壇の上で読み上げられたとおりです」  ハーヴィンは帽子の縁をもう一度撫でた。撫でるところは、さっきと同じ場所だった。 「家に、寄ってもらえますか」 「寄ります」 「……母に」  その先が出てこなかった。  無事だと言えばいい。それは本当のことだった。 「無事です、と」 「伝えます」 「手紙は、しばらくかかると思います」 「待っております」  ハーヴィンは頷いた。預かったものは、それだけだった。  村では、荷が着くと集い石の前に人が集まる。何を訊かれても、この人たちは同じ答えを返すことになっている。その答えを決めた者は、あの部屋の外にいた。  コルドが御者台に上がり、手綱を膝の上に置いた。 「日のあるうちに丘を越えます」  それから、思い出したように付け足した。 「書いたものは、こちらでは預かれません。役所を通すようにと」  男たちが荷台に乗った。一人が縁に腰を下ろして、トラマルの方へ顎をやった。 「村で言うておりましたな。賢い犬は、導きの光に——」  そこで止まった。  門柱のそばの男は、こちらを見ていなかった。それでも先は続かなかった。 「……いや」  男は膝に手を置いて、荷台の奥へ座り直した。それから、思い出したように背を伸ばした。 「村を代表いたしまして、お礼を申し上げます」  覚えてきた言い方だった。誰に覚えさせられたのかは訊かなかった。  ハーヴィンが最後に足をかけた。踏み板に片足を乗せたところで、一度こちらを振り返った。 「うちの村で、一番賢いのは」  トラマルが耳を動かした。 「……いや」  ハーヴィンは荷台に上がり、それから帽子をかぶった。  フェルドウィンは、トラマルの頭に一瞬だけ手を置いた。  コルドが手綱を鳴らした。車輪が軋んで、荷馬車は門をくぐった。  トラマルが後を追って、敷居のところまで出た。名を呼ぶと、耳を後ろに倒して戻ってきた。フェルドウィンは敷居の内側に立ったままだった。  幌が下りに入って、少しずつ低くなっていった。角を曲がる前に、荷台の奥で手が一つ上がったように見えた。誰の手かは分からなかった。  四日かけて来た道を、三日で帰るという。  入れ替わりに、外から別の荷馬車が入ってきた。門番は何も訊かずに通した。積んでいるのは樽で、御者は前を見たまま石畳の方へ入っていった。  濃い色の服の男が近づいてきた。 「お戻りください」  幌が見えなくなってからも、轍だけがそこにあった。男が、もう一度同じことを言った。  中庭を横切るとき、厩の方から人の声がした。名前は呼ばれなかった。  階段の途中で、袋を持ち直した。母が包んだものが、まだ半分残っている。半分は道中でトラマルが食べた。  上りきったところで、足が止まった。  ミリアのことを、一言も言っていなかった。  王都の屋根は全部石なのか、と訊かれていた。まだ、どこも見ていない。
カクヨムにて先行公開しています。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳