夏木 花 / 第36話

第5話 借りてきた言葉

 扉を叩かれたとき、フェルドウィンは灯も消さずに寝台の縁に座っていた。 「下で、人が待ってます」  取次ぎの男はそれだけ言って、先に歩き出した。名前も用件も言わない。訊いていいものかどうか、階段を下りきるまで分からなかった。  男の持つ灯が、廊下の扉を一つずつ照らしては置いていった。どの扉も閉まっていて、中に人がいるのかどうかも分からない。夕方ここへ通されたときには、誰ともすれ違わなかった。  卓の布包みを小脇に抱えたまま下りてきていた。置いていっていいと言われていないものを、部屋に置いていっていいのかが分からなかった。手が塞がっていたので、通用口の扉は肩で押した。  外は中庭だった。石畳が夜露で光っている。  扉の外に、女が立っていた。金の髪を後ろで一つに束ねている。膝下までの外套を着たままで、中に入ろうとはしなかった。  トラマルが先に出ていって、女の足元の匂いを嗅いだ。女は避けなかった。 「フェルドウィン・フェンレイね」 「……はい」 「それは」  女は、抱えた布包みに目をやった。 「預かりものです」 「そう」  女はそれ以上訊かなかった。フェルドウィンは、それを石段の上に置いた。置いてから、置いていいものかをまた考えた。 「今日、何があったか話せとは言わない。そこは安心して」 「儀は、滞りなく執り行われました」  女は黙った。取次ぎの男が扉の内側で足踏みをして、それから離れていった。 「今の、誰の言葉?」 「え」 「あなたの言い方じゃないでしょう」 「……村の代表として、立ち会っただけですので」 「二つ目ね」 「え」 「借りてきた言葉が二つ。三つ目を言ったら帰るわ」 「いや、その……別に」  女は片方の口の端だけを上げた。 「それは、あなたの言葉みたいね」  中庭の向こうで、どこかの窓が閉まる音がした。女は少しだけ声を落とした。 「明日の朝の段取りを、誰が決めたか知ってる?」 「……役人の方だと」 「その、順を決める場に、あなたは呼ばれた?」 「いえ」 「呼ばれると思ってた?」  フェルドウィンは答えなかった。扉の向こうで、順を数え直す声を聞いていた。あのとき自分は卓の前に立っていて、剣は布から半分出ていた。 「もう一つ。あなたは今日、承知したことになっているわ」 「……何をですか」 「全部よ。明日のことも、口をきかないことも。書き付けにそう残ってる」 「僕は」  言いかけて、止まった。 「返事はしていません」 「知ってる」  女は石段を一段だけ上がった。 「言わなかったのを、承知と書いたの。書いたほうが後から正しくなるのよ、この街では」 「……書いたあとに、線を引いてました」 「それは、済んだという印」 「何がですか」 「あなたよ」  門の外で犬が一度吠えて、すぐにやんだ。トラマルは首を上げず、石畳に伏せて、夜露が冷たかったのか、すぐに起き上がって座り直した。 「決めたのは神殿じゃない。宰相府よ。それも、そんなに大勢じゃない。今日あの部屋にいた人たちの中に、決める側の人間は一人もいなかった」 「どうして、そんなことまで」 「宮廷にいたことがあるの。今はいない。それだけ」  女は外套の襟を直した。指の動きは、村長のそれとはまるで似ていなかった。 「私はあの部屋にいない。あなたの犬に何が出たのかも、人から聞いただけよ。だからそれを確かめに来たんじゃないの」 「じゃあ、何を」  女は答えずに、門の方へ目をやった。 「門から外へは出た?」 「いえ」 「四日かけて来て、まだ街を見ていないのね」 「村の者は、明日の朝、名前を読み上げたあとに発つそうです」 「早いわね。あなたのためだとは、言われなかったでしょう」  言われていない。ヴェッセルは一度も、そういう言い方をしなかった。 「明日の朝、名前が要るのよ。大神殿の前で読み上げられる名前が。若くて、身分がなくて、家が遠くて、明日の朝までに用意のつく名前。あなたは選ばれていない。据えられたの」 「誰が決めたんですか」 「名前が要るの?」 「……はい」 「知って、明日の朝に何が変わる?」  何も変わらなかった。フェルドウィンは黙った。 「変わらないものは、今日は渡さないわ」  石畳の冷たさが、靴の底から上がってきていた。 「明日、僕が本当のことを言えば」 「あら、それは名案ね」  女は腕を組んだ。 「読み上げる役人は止まらない。記録は残っているけれど、司教より上の人と、宰相府が許した人しか読めない。今日あの部屋にいた人は、村長も含めて全員が口止めをされてる。誰も確かめられない場所で、一人だけが違うことを言うの。それがどう見えるか、想像してみて」 「……はい」 「言ってみて。どう見える?」 「嘘つきに、見えます」 「そう」  フェルドウィンは石段の上の布包みを見た。 「じゃあ、どうすればいいんですか」  女の腕がほどけた。  中庭は静かで、どこかの厩で馬が身じろぎする音まで聞こえた。 「……それを、私に訊くの」 「はい」 「怒らないの?」 「怒った方が、いいですか」 「訊かないでよ、そんなこと」  声が少し高くなって、そこで切れた。女は息を吐き、上がった一段を下りた。 「腹を立てるのに、誰かの許しが要ると思ってる?」 「……いえ」 「思ってる顔よ」  女は中庭を横切りはじめた。三歩ほど行って、止まった。 「私は、どうすればいいかを教えに来たんじゃない。何をされたのかを知らないまま明日の朝に立たされるのは、さすがに気の毒だと思っただけ」 「知りました」 「知った顔じゃないわね」  それから、振り返らずに言った。 「エレナ・アッシュフォード」 「え」 「名前。訊きそびれる顔をしていたから」  女は門の方へ歩いていった。門番が何も訊かずに通したのが、扉のところからでも分かった。  フェルドウィンは布包みを抱え直し、階段を上がった。取次ぎの男は廊下の端に立っていて、部屋の前まで来ると、灯を持ったまま黙って戻っていった。  部屋は出たときのままだった。毛布は二枚とも畳んだままで、灯だけが短くなっていた。  昼から日が暮れるまでのあいだに決まった、と女は言った。  そのあいだ、自分は窓のない部屋にいた。硬いパンを半分に割って、噛む気になれずに手を下ろした。半分は犬が持っていって、残りもそのあと同じ道をたどった。  トラマルが寝台の下に入り、それきり出てこなかった。フェルドウィンは灯を消さずに、外套も脱がずに座っていた。
カクヨムにて先行公開しています。

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