夏木 花 / 第40話

第9話 二人きりの夜

 裏返した紙は、そのままにしておいた。  トラマルが水を飲みに行き、戻ってきて卓の脚のところで丸くなる。フェルドウィンはパンをもう半分だけちぎって口に入れ、残りを布に包んだ。明日になればまた運ばれてくるのだろうが、手が勝手に包んでいる。村では、そうしていた。  扉が叩かれる。  灰色の上着が盆を下げに入ってくる。皿を重ね、床の浅い皿も拾い上げ、卓の紙のところで一度だけ手が止まった。紙には触れない。 「あの」 「はい」 「名前は、なんていうんですか」 「廊下の者、とお申し付けください」 「そうじゃなくて」  男が盆を持ち直す。答えを探している顔ではない。 「書記官様のお指図でしたら、そのように申し上げます」 「訊いてるのは、僕です」 「では、廊下の者、と」  言い終える前に、扉の方を向いている。 「明日も、あなたですか」 「存じません」 「じゃあ、明日の人にも同じことを訊きます」 「お好きなように」 「もう一つ。犬の皿、明日も出ますか」 「仰せがあれば」 「誰の仰せですか」 「うかがっておりません」  扉が閉まり、外で椅子が鳴る。  好きなように、というのが、今日はじめて自分に許されたことに聞こえて、フェルドウィンは笑いかけ、やめた。笑うところではなかった。  腰の帯を外す。金具は二つあって、下の方が固い。爪を立てて外すと、指の腹に跡が残る。剣を鞘ごと壁に立てかけたところで、滑って倒れ、板の床で大きな音を立てる。廊下の椅子が鳴り、すぐにまた静かになる。 「……なんでもないです」  誰にともなく言ってから、聞こえていたら余計に間抜けだと気づく。  トラマルが顔を上げている。 「これ、重いんだよ。持ってみるか。持てないよな」  尻尾が板の床を二度叩く。立てかけ直すのに、三度かかった。  窓の板戸は、閉めても端が浮く。押すと蝶番の下の側が動く。軸の据わりが緩んでいるらしい。 「これ、村の納屋の戸と同じだ。板を噛ませて直したら、父さん、何も言わなかった。あれ、上出来のときの顔なんだよ」  袋から縄を出して、端を歯で裂く。細い一本を撚って、軸に二度巻きつけ、余りを強く引く。もう一度押してみる。浮かない。 「な」  トラマルは顎を床につけたまま、目だけを動かした。 「……直したところで、明日も同じだけどな」  誰も困っていないし、誰かに言うことでもない。井戸の滑車も、そのうち誰かが噛ませるだろう。 「僕にできること、数えてみようか。怯えた家畜を落ち着かせる。罠を作る。緩んだものを締める」  指を三本折ったところで止まる。四本目が出てこないことに、思っていたより長く耐えられない。 「この街、羊いないんだよな。羊がいないと、僕、ほとんど何もできない人なんだよ」  灯の芯が短くなって、光の輪が卓の上まで縮んでいる。  床に座ると、トラマルが顎を膝に乗せてくる。首輪の太い側が手のひらに当たる。留め具に指をかけると、案の定、首を振って外させない。 「外さないよ。ちょっと見るだけ」  毛をかき分ける。肩の後ろのあたりで、指の下に線がある。押し開いた毛の底に、細い光の筋が幾つも重なって、閉じた輪のような形をつくっている。熱くない。冷たくもない。指を離すと茶褐色に紛れて、どこにあったのかも分からなくなる。 「なんで、こっち見たんだよ」  前にも訊いた。そのときも返事はなかった。 「上じゃなくて、横だっただろ。何もない方」  トラマルは膝の上で息をして、目を閉じかけ、フェルドウィンが手を止めたので開ける。 「怒ってるわけじゃないよ」  本当は少し怒っている。ただ、誰にかが分からない。この犬でないことだけは確かで、確かなぶん、行き場がなかった。 「あのとき、誰か笑っただろ。一人だけ。あれ、まだ聞こえてる」 「拾ったときさ、両手で足りたんだよ、お前」  雨の朝だった。牧舎の裏の草の間で鳴いているのを、上衣の前に入れて連れて帰った。家に着くまで、胸のところだけが温かかった。首輪を作ったのはそのあとで、革の裁ち方を間違えて片側だけ太くなった。 「作り直すって言うたびに、首振るしさ」  板戸の隙間から来ていた冷えた空気は、縄を巻いた側からは入ってこない。 「なあ。帰る話、していいか」  尻尾が一度動く。 「門を出て、下りの白い轍だろ。行きは四日で、帰りは三日だってコルドさんが言ってた。丘を越えて、二日目のぬかるみのとこを過ぎたら、三日目の昼には集い石が見える」  言葉にすると、思っていたより近い。 「母さんは畑にいる。ミリアは板戸の隙間から先に顔を出す。父さんは牧舎から出てこないで、羊の話をする」  そこまではいくらでも歩ける。その先が続かない。  立ち上がって、扉を開ける。廊下の端で椅子が鳴り、灰色の上着が立ち上がる。 「何か」 「いえ」 「中庭でしたら、お供します」 「そうじゃなくて」  突き当たりに階段の口があって、その下は暗い。灯は一つも置かれていない。 「あそこ、下りたらどうなりますか」 「下でお止めすることになります」 「止めるって」 「お戻りいただきます」  脅すところも、済まなそうなところもない声だ。決まったことを決まった通りに言っているだけで、それが一番こたえる。 「……訊いただけです」 「はい」  扉を閉める。トラマルが顔だけ上げて、また下ろした。 「仮に、あそこを下りられたとしてもさ」  声が小さくなる。 「触れは読み上げられちゃったんだ。石畳にいた人、みんな知ってる。第七代の器の名前」  その名前の人間が村に帰れば、探す者は村に来る。 「濃い色の服の人たちが、あの道を三日かけて上ってくるんだ。集い石の前に立って、ハーヴィンさんが帽子を取って、母さんが戸口に出てきて、ミリアが後ろから顔を出す」 「みんな、もう何も言えなくされてるんだよ。そこに僕が帰ったら」  膝の上の手を握る。指の先が冷えている。  帰らない、ではない。帰れない、でもない。帰れば、あの人たちに払わせることになる。はっきりしているのは、それだけだ。 「逃げる場所がないわけじゃないんだ。あるんだよ。あるんだけど、そこに人がいる」  トラマルの耳が動く。 「僕が帰るのって、あの人たちのところへ持っていくのと同じなんだ。それは、嫌だ」  トラマルが顎を上げて、こちらを見ている。 「だから、逃げない」  言ってしまってから、勇ましい決め方ではないと思った。腹の底が熱くなったりもしない。ただ、決めてしまうと、宙に浮いたままだった重さが、足の裏のあたりまで下りてくる気がする。 「立ってろって言われたら立つ。何すればいいですかって訊いて、何も、って返されたら、そのまま立ってる」  それが今の自分にできることの全部で、その全部が、他人の決めたことだ。 「でも、明日もそこに立つのは、僕が決めた」  卓に戻って筆を持つ。墨は乾いている。壺の蓋を開け、穂の先だけを含ませる。  トラマルは、と書いた行の下に、続きを書く。 「痩せていません」  声に出してから書いた。字は、上の行より小さくなる。行が二つと、一つ。ミリアに訊かれたことのうち、答えられたのは一つだけになった。 「他に何か書けると思うか」  トラマルは目を開けない。 「思わないよな。屋根のことも書けないんだ。上しか見てないから」  金貨のことも、袋を検められる側にいるあいだは、たぶん見ることがない。紙の下半分は白いままだった。 「明日、訊いてみる。門のことじゃなくて、街のこと。歩かせてくれとは言えないだろうけど、訊くだけなら、訊いていいことのうちに入るかもしれない」  灯が細くなり、芯が一度だけ跳ねて、消える。部屋が急に広くなった。  寝台に上がって外套をかけると、板の床で爪の音がして、寝台の下ではなく縁のところで止まる。手を下ろすと、鼻が当たった。 「……そこでいいのか」  満足そうに鼻を鳴らすのが聞こえた。
カクヨムにて先行公開しています。

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