夏木 花 / 第39話

第8話 書けない手紙

 袋の口の紐は、母の結び方ではなくなっていた。  二重に回して端を挟んだだけの結び目で、引くとひとりでにほどけた。母は輪をこしらえてからもう一度くぐらせる。ほどくのに膝を使う。  卓の上に、替えの上衣を出した。袖口が一度繕ってある。糸の色が合っていないのは、繕ったのが母ではなくミリアだからで、そのことで台所がひとしきり賑やかになった日があった。  次に干し肉の包み。底に縄が一巻き、押し込むように入っていた。  寝台の下から鼻先だけが出てきた。 「まだだよ」  鼻先は引っ込まなかった。  包みを開くと、干し肉は半分あった。麻の布に脂が染みて、そこだけ色が濃くなっている。フェルドウィンは端を一切れちぎって、寝台の下へは投げずに、床に置いた。トラマルが出てきて、置いた場所まで来てから食べた。  扉を開けると、廊下の端で椅子が鳴った。  灰色の上着の男が立ち上がっていた。昨日の取次ぎとも、門で袋の口を検めた男とも違う顔だった。 「何か」 「……紙を、いただけますか」 「紙」 「手紙を、書くので」  男は下りていって、思っていたより早く戻ってきた。紙は厚く、端が揃っていた。村では触れ書きにしか使わない類のものだった。羽根の筆と、蓋のついた壺が添えてある。 「足りなければ、いくらでも」  一枚あれば足りると言おうとして、フェルドウィンは黙った。 「代筆も承りますが」 「……自分で書きます」 「では、書き上がりましたらこちらへ」  男は椅子に戻り、腰を下ろす前に付け足した。 「封は、こちらでいたしますので」  扉を閉めてから、フェルドウィンはもう一度開けた。トラマルが足元から先に出ようとして、止まった。 「外に、出してもいいですか」 「中庭までは」  男は椅子から離れ、廊下の先へ手を向けた。ついてくる構えだった。 「一人で行きます」 「では、少し離れて参ります」  中庭の石畳は昼のあいだに乾いていた。夜露で光っていた場所も、今は色が変わっているだけになっている。  トラマルは隅の水桶の脇を嗅いで回り、厩の方へ行きかけて、途中で戻ってきた。厩の前では若い男が二人、鞍を担いで通り過ぎた。片方がこちらに気づいて足を止め、担ぎ直す振りをして、そのまま行った。  灰色の上着は回廊の柱のところに立っていた。こちらを見てはいなかった。見ていないまま、フェルドウィンが井戸の方へ向きを変えると、同じだけ向きを変えた。  井戸の縁に、桶を上げる滑車が付いていた。軸の据わりが悪いのか、綱が片側に寄って擦れている。村の井戸なら、板を一枚噛ませれば直る。フェルドウィンは手を伸ばしかけて、下ろした。  トラマルが先に、扉の方へ歩き出していた。  部屋に戻ると、卓の紙が風もないのに少し反っていた。  日が傾いた頃、扉が叩かれた。  ヴェッセルは書き物の板を抱えて入ってきた。部屋を見回しはしなかったが、卓の紙には一度だけ目をやった。 「明日の朝、絵師がもう一度参ります。今度は色を置くとのことです」 「はい」 「中環の広場の件は、三日のうちに。組合が場所を空けております」 「僕は、そこで何を」 「立っていただきます」  ヴェッセルは板に一行書き入れた。書きながら、次を言った。 「日が落ちてからは、廊下の者にお申し付けください。中庭までは出られます」 「門は」 「門は、まだです」  フェルドウィンは紙の端に手を置いた。反りが手のひらの下で伸びた。 「手紙を書きます」 「うかがっております」 「……何を書いてもいいんですか」 「触れに出ていることでしたら」 「触れに出ていないことは」 「お控えください」  ヴェッセルは板を持ち替えた。出ていく素振りはなかった。 「村の人たちは、口外しないよう言われているんですよね」 「申し渡してあります」 「じゃあ、僕の家に伝わるのは」 「触れのとおりです」 「それは、嘘です」  ヴェッセルの手が止まった。止まったのは、書き終えたからのようにも見えた。 「嘘とは申しておりません」  ヴェッセルは板を小脇に挟み直した。 「明日のことは、朝にお伝えします」  扉が閉まり、廊下で椅子が鳴った。二人分の足音がして、そのうちの一つだけが遠ざかっていった。  窓の板戸を開けると、下は中庭で、その向こうに屋根があった。  石だった。手前の棟も、その先の棟も、日を返して白く見えるところまで石だった。板を並べた屋根はどこにもない。ただ、遠くへ行くほど屋根は低くなっていって、低くなった先はもう見分けがつかなかった。全部かどうかは、そこからでは分からなかった。  卓に戻って、筆を持った。持ち方は、村で触れ書きを写す男の手つきを思い出しながら決めた。  ミリアへ、と書いた。  字は思っていたより大きくなった。  訊かれていたのは、屋根のことだった。それから、金貨を見たかということ。金貨は見ていない。屋根は、たぶん石で、たぶん全部ではない。  筆を置いて、また持った。 「無事です」  声に出してから書いた。書いてしまってから、それが今朝ハーヴィンに預けたのと同じ言葉だと気づいた。同じものが二つ村に着くことになる。  次の行に、トラマルは、と書いた。  そこで手が止まった。ミリアが最初に訊くのはそれだった。行きの荷馬車に乗せてもらえたか、王都の犬と喧嘩をしなかったか、痩せていないか。書けるのは、痩せていない、までだった。  筆先の墨が垂れて、書いた三文字の下に丸い染みを作った。フェルドウィンは布の端で押さえた。染みは薄くなって、広がった。  墨が乾くのを待つあいだに、書けることを数えた。名前が読み上げられたこと。第七代の器であること。王国がこれを迎えること。どれも、ミリアが訊いたことではなかった。  訊かれたことのうち、答えられるものは一つもなかった。  紙の下半分は白いままだった。フェルドウィンは書いた行の上に手を置いて、少し押さえた。押さえたところで文字が減るわけではなかった。  灯が運ばれてきた。頼んでいなかった。  続いて盆が来た。麦の粥と、肉の煮たものと、白いパンが二つ。村では祭りの日でも、一人に一つは回ってこなかった。運んできた男は、卓の紙を避けて盆を置いた。 「犬にも、との仰せです」  もう一枚、浅い皿が床に置かれた。中身は同じ肉だった。トラマルは匂いを嗅いで、一度フェルドウィンの方を見てから食べはじめた。  フェルドウィンはパンの端をちぎって口に入れた。噛んでいるあいだ、誰が仰せになったのかを考えていた。訊けば教えてもらえるのだろうし、教えてもらったところで、その人がこの部屋に来ることはない。  トラマルが卓の脚のところへ来て、床に顎を乗せた。首輪の太い側が床に当たって、そこだけ浮いている。指を差し入れて、緩みを確かめた。緩んではいなかった。  廊下で椅子が鳴り、扉が細く開いた。 「お出しになるものは」  卓の上の紙には、二行と、書きかけが一つあるだけだった。 「……ありません」 「では、朝にうかがいます」  扉が閉まった。  袋の底の縄を出して、巻き直した。村では、こういう縄は使う前に一度ほどいて巻き直す。ここで使う当てはなかった。  窓の外で、屋根が手前から順に暗くなっていった。石は、日が落ちてからのほうが黒く見えた。
カクヨムにて先行公開しています。

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