夏木 花 / 第41話

第10話 はじめて歩く石の街

 通用口の閂が抜ける音は、思っていたより軽かった。  門番が扉を半分だけ引く。隙間の向こうで、石畳が朝の光を白く返している。 「段がございます」  左肩のうしろで、灰色の上着が言う。 「……今日も、あなたなんですね」 「そのようです。広場まで、道なりに参ります。途中でお止まりにならないよう」 「止まったら、どうなるんですか」 「お声をかけます」 「それだけ?」 「それだけです」  トラマルが先に鼻を出した。首輪には、袋の底にあった縄の残りを結んである。窓の軸に巻くために一本裂いたぶん、少し細い。縄がぴんと張り、フェルドウィンは段を一つ飛ばして下りた。腰の剣が腿を叩く。  門の外だ。 「……出た」  声に出したら、胸の奥が跳ねた。神託の日から、見たのは窓のない部屋と壇の上と、宿舎の廊下だけだった。今、自分の足が、街の石を踏んでいる。  昨日の夕方、ヴェッセルは板に一行書き足しながら言った。 「明日は、広場までの道を下見していただきます」 「僕が街のことを訊いたからですか」 「明後日、そこにお立ちいただくからです」  分かっている。それでも足は、勝手に前へ出た。  門の外の通りは広い。両側を高い塀が挟み、塀の上には石の屋根が重なっている。  なのに、音がない。  自分の足音だけが塀に跳ね返って、左右から追いかけてくる。跳ねていた胸が、一歩ごとに縮んでいく。歩いていいと言われた道なのに、歩いてはいけない場所を歩いている気がした。 「ここ、誰も歩いてないですね」 「おいでではあります」 「どこに」 「塀の内に」 「あの、廊下の人」  呼んでから、ここが廊下ではないと気づく。 「……外でも、そう呼んでいいんですか」 「何とでも」 「じゃあ、道の人」 「それは、おやめください」  塀が途切れた先に、扉のない石のアーチがあった。  くぐった瞬間、音が顔にぶつかってきた。 「どいたどいた、樽が通るよ!」 「一つ銅貨三枚、三枚だよ!」 「割ったのはあんたでしょうが!」  人が、通りの幅いっぱいに流れている。肩が来る。籠が来る。よけた先にまた肩が来る。 「す、すみません」 「ぼうっと立ってんじゃないよ」  焼けた麦、獣脂、酢、馬の糞、甘い煙。村では匂いは一度に一つずつ来る。ここでは全部がいっぺんに、鼻の奥で絡まる。  怖い、と思った。同じくらい、目が離せなかった。 「兄ちゃん、焼きたてだよ! 一個どうだい」  籠を抱えた子どもが、丸いパンを目の前に突き出してくる。 「いや、その……お金、持ってなくて」 「剣は持ってんのに?」 「剣は、借り物っていうか」 「ふうん。変なの」  子どもはあっさり次の客へ走っていった。変なの、が耳に残る。本当にそうだ。 「……人って、こんなにいるんだ」 「これで、半分ほどです。祭りの月でしたら、この倍は」  灰色の上着はそれだけ言って、口を閉じた。  角の屋台に、刷り物が吊るしてある。剣を掲げた背の高い若者と、足元で胸を張る大きな犬の絵だ。 「第七代の器様だよ! 一枚、銅貨二枚!」 「あの、それ……本当に、そういう顔なんですか」 「大神殿の前で見たってやつが、そう言ってたからね」 「遠くから、ですよね」 「そりゃ遠くからさ。近くで見られるもんかい」  隣の女が一枚買って、トラマルを見下ろした。 「犬まで立派だねえ。この子とは大違い」 「……ですよね」  笑って合わせた。袖口を握っていた。  そのとき、どこかで羊が鳴いた。  トラマルの頭が跳ね上がる。縄が一度だけ強く引かれて、次の瞬間、手の中が空になった。 「——トラマル!」  茶褐色の背が、人の脚の間へ吸い込まれていく。  フェルドウィンは走った。籠を跳ね、樽の横をすり抜け、誰かの怒鳴り声を背中で聞く。見えない。どこにもいない。名前を叫ぶたびに振り返るのは、知らない顔ばかりだ。 「トラマル! トラマル、どこだ!」 「犬なら、広場のほうへ抜けてったよ!」  果物売りの女が、顎で通りの先を指す。 「ありがとうございます!」  礼を言い終える前に、足はもう動いていた。  この街で、あいつを見失ったら。  ここには、知っている道が一本もない。 「お止まりください!」  袖をつかまれる。灰色の上着だった。息が乱れている。 「犬が!」 「お止まりください」 「放してください!」  腕を振り切った。逃げたと思われるかもしれない、と頭のどこかで考えて、どうでもよかった。  人垣が切れる。広場だ。組みかけの台の脇を抜ける。 「おい、危ねえぞ!」  木槌を持った男の声を越えて、広場の奥の石段まで走ったところで、足が止まった。  いた。  石段の一番上で、トラマルが尻尾を振っている。見下ろした先に囲いがあって、羊が五、六頭、固まって鳴いていた。 「……お前なあ」  膝から、力が抜けた。石段の縁にしゃがみ込み、首輪をつかむ。温かい。息をしている。いつもの重さだ。 「羊か。羊だよな。分かるよ。分かるけどさ」  トラマルが振り向いて、顔を舐めてきた。反省している顔ではない。 「おい、上の! その犬、うちの羊に何する気だ!」  囲いの脇から、杖を持った男が怒鳴り上げてくる。 「何もしません! 見てるだけです!」 「見てるだけって顔じゃねえぞ!」 「顔はこうなんです、生まれつき!」  男は疑わしそうに杖を肩に担ぎ直し、羊の群れを囲いの奥へ寄せた。トラマルの尻尾が、名残惜しそうに一度だけ石を叩く。  背後から、今度は木槌の男が歩いてきた。 「あんたの犬か。犬の係なら、ちゃんと繋いどけ」 「いや、その……別に」 「別に?」 「……犬の係です」 「明日は勇者様の横に立つ犬なんだ。よく洗っとけよ」 「……はい。洗っておきます」  うしろで足音が止まった。 「お止まりにならないよう、と申し上げました」 「止まってたら、見失ってました」  灰色の上着は何か言いかけて、息を整えた。 「……さようで」  それから、フェルドウィンは顔を上げた。  屋根が、下にあった。  石段から先は、低い屋根がどこまでも続いている。石で葺いたものもある。けれど多くは板で、灰色に反った板の上に、拳ほどの石がいくつも載せてある。藁の屋根まで混じって、煙が何本も上がっている。  笑いが、喉から先に出た。 「……載ってる」 「何か」 「石が、載ってるんです。屋根に。うちと同じだ」  秋の終わりに父さんが梯子をかけて、ずれた石を並べ直す。ミリアが下から、どれが一番重いかを当てようとして、母さんに危ないと叱られる。  全部が石じゃない。でも、石はある。  ずっと訊かれたままだった問いに、ようやく手が届いた。走ってきたぶんの息が、まだ胸で弾んでいる。今すぐ書きたかった。 「あの手紙、もう村に向かってますか」 「役所に上がっております。そちらへ向かう荷があれば」 「荷は、いつ」 「存じません」 「もう一通書いたら、屋根のことも書いていいですか」 「紙はお出しします。中は、同じように検めます」 「屋根は、触れに出てますか」  灰色の上着が、はじめてこちらを見た。 「……屋根、ですか」 「石が載ってるって。それだけです」  広場のほうで、木槌が三つ鳴って止まる。 「うかがっておきます」  弾んでいた息が、すっと冷えた。妹に屋根の話をするのにも、誰かの許しがいる。  フェルドウィンは縄を拾い、首輪に結び直した。輪をこしらえて、もう一度くぐらせる。母の結び方だ。ほどくのに膝がいる。 「これで、もう抜けないからな」  トラマルは囲いの羊を名残惜しそうに見て、それからフェルドウィンの隣に座った。 「なあ。ミリアに訊かれたこと、覚えてるか。屋根は全部石か、金貨は見たか。お前が王都の犬と喧嘩しなかったか」  耳が、名前のところで少しだけ動く。 「屋根は分かった。金貨は、まだ見てない。喧嘩は……羊を見に行っただけだから、しなかったことにしとく」  帰りのアーチの手前で、一度だけ振り返る。人の流れの向こうで屋根が段々に低くなり、一番下は煙に紛れていた。あの中のどこかに、板に石を載せただけの、うちと同じ屋根がある。  ミリアへの答えは、もう手の中にある。紙なら、頼めばいくらでも出てくる。けれど村へ向かう荷がいつ出るのかは誰も知らないし、出たとしても、封をする前に誰かが読む。 「……じゃあ、覚えとく」  トラマルに言うでもなく呟いて、フェルドウィンは答えを口の中で繰り返した。王都の屋根は石。でも、全部じゃない。外のほうは板で、板の上に石が載ってる。うちと同じだ。  いつか、自分の口で言えばいい。それまで、なくさずに持っていればいい。  アーチをくぐると、音がふっと遠のいた。塀の上に、宿舎の屋根が見えてくる。  こちらは、どこまでも石だった。板も、重しの石も、どこにも見当たらない。うちと同じものは、ここには一つもなかった。
カクヨムにて先行公開しています。

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