夏木 花 / 第48話

第11話 平民は初めて貴族街に足を踏み入れる

 中環の大通りは、朝から人でひしめいていた。  ヴェッセルのすぐ後ろについて歩くと、道行く人が一瞬こちらへ目を止め、すぐにそらす。声をかけてくる者はいない。ただ、見られている感じだけが背中に残った。  本屋の軒先に、色とりどりの本が山のように積まれている。 「わあ……」  足が勝手に止まった。  どの表紙にも、同じ絵が刷られている。みつあみに結った少女が、両手で光を湛えたコップを掲げ、黒い煙のようなものを吹き飛ばしている絵だ。金色の縁取り、艶のある紙。手に取らなくても、遠目にはっきり分かるくらい、色が鮮やかだった。 「あれ、なんですか」 「『みつあみ少女とひかりのコップ』。子ども向けの、教団監修の絵本にございます」 「勇者の話……ですよね」 「さようです」  表紙の少女は、朝の光の中で微笑んでいる。両手できれいにコップを捧げ持ち、汚れひとつない白いエプロンをまとって。  自分の両手を見た。爪の間に、井戸の水と縄の繊維が入り込んで、まだ黒い。トラマルは足元で、通りすがりの荷馬車の匂いを一心に嗅いでいる。  あの絵の少女が「本物」で、自分たちは、犬と田舎者の世話係だ。誰に言われたわけでもないのに、そう思った。 「……行こう、トラマル」  縄を引くと、トラマルは名残惜しそうに一度だけ振り返って、素直についてきた。  本屋を離れてしばらく歩くと、道はゆるい上りに変わる。塀の色が変わり、敷石が一枚ずつ大きくなっていった。  磨かれた石の段で、トラマルの爪が滑った。  前脚が流れ、後ろ脚がばたばたと追いつく。 「……爪、立てるなよ。ここの床、たぶん僕の家より高いから」 「お静かに願います」  先を上がるヴェッセルは、振り返りもしない。 「すみません。……あの、本当に僕が行っていいんですか」 「お招きは、勇者殿にございます」 「何を話せばいいんですか」 「訊かれたことに」 「訊かれなかったら」 「お黙りのままで」 「……広場のときと、同じですね」 「おおむね」  靴音の調子は、一段ごとに少しも変わらない。上から、焼いた肉の脂の匂いが下りてきた。腹が鳴りそうになって、慌てて息を詰める。  断れる話ではない。それでも、胸の底が少し浮いている。丘の上から眺めたあの内側に、招かれて上っていく。帰ったら、ミリアになんて話そう。  段を上りきった瞬間、光と音がいっぺんに来た。  細長い広間。卓が一本、端から端まで延び、銀の器が窓の光を跳ね返している。蝋燭の熱で、空気がほんのり温かい。笑い声が石の壁に当たって、天井から降ってくる。 「まあ、あれが」 「思ったより、ずいぶん細いのね」 「刷り物とは違うな。絵師は遠くから描いたのだろう」 「犬のほうが、よほど堂々としているじゃないか」 「村の出だと聞いたわ。どこの村?」 「さあ。北の……いや、西だったか」  村の名を言いかけて、口の中で止まる。誰も、自分に訊いてはいない。浮いていた胸が、すとんと落ちた。どの声も、ヴェッセルのほうを向いている。話の真ん中にいるのに、自分だけが話の外にいる。 「よく来てくれた。勇者殿は、酒は」  屋敷の主も、ヴェッセルを見て言った。 「お控えいただいております」 「その剣は、抜けるのかね」 「儀礼の品にございます」  僕のことなのに。一度も抜いたことがないのは、本当なのに。  家令が家の名と位を呼び、客を椅子へ導いていく。椅子の脚が石を擦る音が、一つ、また一つ。  そして卓のいちばん端に、椅子が一脚だけ残った。  喉の奥で、息が止まる。  家令がこちらを見た。フェルドウィンの右足が、勝手に半歩、前へ出る。 「遅れて失礼を」  背後の段を、若い男が軽い足取りで上がってきた。家令が深く頭を下げ、空いていた椅子を引く。 「おや。そこに立っているのが、噂の?」  男は外套を召使いに放りながら、こちらを一瞥して、当たり前のようにそこへ腰を下ろした。  出しかけた足を、そっと戻した。誰にも見られていませんように、と祈りながら。  家令の目がフェルドウィンの上を素通りして、ヴェッセルで止まる。 「私どもは、こちらで」  ヴェッセルが窓の脇へ退いた。誰も何も言わない。耳の後ろが、じんと熱い。いっそ誰かが「席がない」と笑ってくれたら、一緒に笑えたのに。 「勇者殿。窓からご覧になるといい。高環からの眺めは、そうそう見られるものではない」 「たか……」 「高環」 「……はい。たかわ」  窓の縁に手をかける。汗ばんだ胸元に、外の風がひやりと当たった。  下に、街があった。 「うわ……」  声が勝手にこぼれる。石の屋根が段になって、どこまでも下っていく。遠くなるほど低く平たくなって、いちばん外は灰色の帯になり、煙の中へ溶けていた。  あそこから内側は貴族街だ、と言われて、僕たちは、と訊いた日があった。外、と返ってきた。  いま、その内側から見下ろしている。  耳の熱が、少しだけ引いていく。すごい、と素直に思った。この景色は、たぶん村の誰も一生見ない。 「見ろよ、トラマル。屋根が、段になってる」  トラマルは窓の縁に届かず、鼻だけ上に向けてふんと鳴らした。 「どうかね」 「屋根が、全部下にあります」 「はは、それはそうだ。ここは高環だからな」 「あの、外環の屋根って、石が載ってるの、知ってますか」  勢いのまま言っていた。 「石?」 「板の上に、拳くらいの石を。風で飛ばないように。うちの村と、同じなんです」 「まあ、そうなの」  奥方は杯を傾け、それきりだった。 「それより、広場はいかがでした。中環の」 「なか……?」 「第二環の広場です」  ヴェッセルが低く添える。 「だい、に……あ、昨日の。石段の上の、下に羊の囲いがある……」 「羊!」  どっと笑いが起きた。 「羊で覚えていらっしゃるの」 「羊飼いのお生まれだそうだ。道理だな」 「では今度から、あそこは羊の広場と呼ぶとしよう」  笑いが、もう一段大きくなる。  顔から火が出た。袖口を握りしめ、窓の外へ目を逃がす。  せめて、あの屋根を指さしたかった。昨日、声を上げて笑った、板に石を載せたうちと同じ屋根。灰色の帯に目を凝らす。もっと凝らす。  見えなかった。 「……見えないな。ここからじゃ」  口の中で呟いた声は、笑い声の下に沈んだ。  全部がひとまとめの灰色で、石なんてどこにもない。この卓の人たちは、たぶん一度も、あの石を見たことがないのだろう。 「外の者たちは、たいそう沸いたそうね」 「ああいうのは、外のほうがよく喜ぶ」 「外の者は単純だからな」  首が振り向いた。主が気づいて、軽く手を振る。 「ああ、いや。勇者殿のことではない。外環の話だ」 「……はい。分かってます」  分かっている。村は、あの灰色より、さらに荷馬車で四日ぶん外にある。  そのとき、縄がぐいと引かれた。 「とらまる、お手!」  いつの間にか椅子を下りた小さな女の子が、トラマルの前にしゃがみ込んでいる。次の瞬間、トラマルが伸び上がって、その頬をべろりと舐めた。 「きゃあ!」 「こら、トラマル!」  奥方が腰を浮かせる。けれど女の子は、転がるようにして笑っていた。 「くすぐったい! もういっかい!」 「だめだめ、怒られるから……ほら、お座り」  トラマルは座らない。尻尾だけが、磨かれた床をぱたぱた掃いている。 「座らないじゃない」 「座らないんだよ、こいつ。羊は追うくせに」  女の子がまた吹き出して、つられてフェルドウィンも笑った。この屋敷に上がって、初めて笑った。 「ねえ、勇者さまのお家はどこ?」 「ずっと向こう。あの灰色の、もっと外」 「外の人なの?」 「……うん。外の人」  女の子は少し考えて、それから、まっすぐこちらを見上げた。 「じゃあ、勇者さまは、どこに座るの?」  卓のほうで、杯を置く音がした。 「お席に戻りなさい」  奥方の声に、女の子は刺繍の敷物が載った自分の椅子を振り返る。戻る場所が、ちゃんとある。  この広間で、まっすぐ訊いてくれたのはこの子だけだった。それが嬉しくて、同じだけ痛かった。 「……立ってるのが、今日の仕事なんだ」 「じゃあ、足、疲れるね」 「……うん。ちょっとね」  言われて、急に膝が重くなった。広場の台に上がってから、一度も曲げていない。  門を出ると、背中で閂が落ちた。どん、と腹に響く重い音。宿舎の通用口の閂は、あんなに軽かったのに。 「ヴェッセルさん」 「はい」 「僕の席って、どこかにあるんですか」 「……うかがっておりません」 「そうですよね。訊いてみただけです」 「ここは、内なんですよね」 「高環です」 「内ですか。外ですか」  ヴェッセルは歩きながら、ほんの少しだけ間を置いた。 「通りでございます」 「……通り、ですか」 「はい」  両側から、高い塀が迫っている。足を止めかけて、止めない。止まれば、お声がかかる。  内には入った。入った先は、塀と塀のあいだだった。
カクヨムにて先行公開しています。

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