夏木 花 / 第35話

第4話 窓のない部屋

 濃い色の服の男が二人、廊下を先に立って歩いた。  角のところでハーヴィンが別の者に呼ばれ、そちらへ連れていかれた。フェルドウィンが振り返ったときには、外套の裾しか見えなかった。  片方の男が扉を開けて、中を示した。 「じきに参ります」  窓のない部屋だった。石の壁に、卓が一つと椅子が二つ。卓の端に灯が置いてある。扉が閉まると、獣の声も人の声も、急に遠くなった。  トラマルは卓の脚のそばで一度回ってから伏せた。  灯の芯が、少しずつ短くなっていった。扉の下の隙間から廊下の灯りが細く入ってきていて、人が通るたびにその線が切れ、また戻った。紙を繰る音がする。低い声も聞こえるが、言葉までは届かない。  一度、扉に手をかけてみた。掛け金は落ちていなかった。押すと指の幅だけ開いて、廊下に立っていた男がこちらを向いた。 「もう少しお待ちください」  フェルドウィンは扉を閉めた。  卓の脇に屈んで、トラマルの背に手を伸ばした。灯の下では、毛の色が濃いところと薄いところがあるようにしか見えない。毛を指で分けると、線はまだそこにあった。指の腹の下は、あたたかくも冷たくもなかった。  トラマルは撫でられているものと思ったらしく、尻尾で一度床を打った。  しばらくして、若い男が盆を持って入ってきた。硬いパンと、水の入った土器。置くとすぐに出ていった。何か訊く暇もなかった。  フェルドウィンはパンを半分に割って、片方を持ったまま卓に肘をついた。噛む気になれず、そのうち手が下がった。手が下がりきる前に、トラマルが横から持っていった。  残りの半分も、しばらくしてから同じ道をたどった。  鋤の刃の値を見てくると言ったな、と思い出した。門をくぐってから外に出ていない。値を訊ける相手にも、まだ一人も会っていない。  扉が開いたのは、灯を替えたあとだった。  入ってきたのは、外庭にも輪にもいなかった男だった。濃い色の官服を着て、書き物の板と紙束を抱えている。椅子を引いて座り、紙束を卓に置いて、端をきちんと揃えた。 「宰相府書記官、ヴェッセル・トールと申します」  フェルドウィンは立ったままだった。 「お掛けください」  座ってから、掛けろと言われて座ったのだと気づいた。 「フェルドウィン・フェンレイさん。カレンの村」 「はい」 「確かめます。紋章は、あなたの犬に現れた」 「……はい」 「記録には残ります。儀式録に、そのとおり書かれます」  ヴェッセルは紙束の一枚をめくった。指の動きに、迷うところがなかった。 「ただし、今は公にしません」  灯が一度、揺れた。 「明朝、大神殿の前で器の名を読み上げます。フェルドウィン・フェンレイ、と」 「……それは」 「今日あの部屋で見たことは、どなたにも話さないでいただきます。ご家族にもです」  ヴェッセルは紙の位置を指の腹で直した。 「あの場におられた方には、全員、同じことを申し渡します。村長にも、もう伝わっているはずです」 「嘘を、つけということですか」 「嘘とは申しておりません」  ヴェッセルは顔を上げなかった。 「北の国境に、澱みが出ました」  紙が一枚、繰られた。 「谷の周りの村は、退避を始めています。荷をまとめて、南へ下りてきている」 「はい」 「同じ日に、公国でも儀が行われました。向こうでは何も起こらなかったそうです」  そこで初めて、ヴェッセルは目を上げた。 「隣と並んで儀を行って、こちらにだけ現れた。それはもう、いくつもの土地に伝わっています」  そしてまた紙に戻った。 「今そこへ、器は犬だと申し上げて、退いてくる足がどうなるか。書記官の私には分かりません」  フェルドウィンは、自分の膝を見ていた。 「僕は」 「あなたは、黙って立っていればいい」  ヴェッセルは書き物の板を膝に乗せた。 「読み上げるのは役人です。歩く道筋はこちらで決めます。何も覚えていただく必要はありません」 「はあ」 「立つ場所には印を置きます。手は下ろしたままで。名を呼ばれても、返事はいりません」 「返事も、いらないんですか」 「いりません。頭を下げるのも結構です」  覚える必要がないと言われたものが、ひとつずつ増えていった。 「犬は左に。連れていてください。そのほうが絵になる」  トラマルが後ろ足で耳の後ろを掻きはじめた。革の紐が、こつこつと顎に当たって鳴った。ヴェッセルは板に手を置いたまま、それが終わるのを待った。掻き終わると、犬は顎を前足に戻した。 「この犬は、どうなるんですか」 「どうもなりません」  ヴェッセルは板の紙に何か書き入れた。 「あなたの犬です。今までどおりで結構です」 「それから、村への便りは、こちらを通していただきます」 「便り」 「荷に託されるものです。書かれたものは、いったんこちらで検めます」 「……手紙も、ですか」 「手紙もです」  ヴェッセルは紙束の端を、もう一度揃えた。 「あの」  言おうとしたことは、いくつもあった。順番に並べようとすると、どれも先に崩れた。 「いや、その……別に」  気づくと、自分の袖口を握っていた。  ヴェッセルは頷いて、板の上の紙に何か書き足した。書き終えると、そこに短い線を引いた。 「では、承知いただいたということで」 「どうして、僕なんですか」  書き足す手が、一度だけ止まった。 「あなたが、連れていたからです」  それだけだった。訊いた側が黙るしかない答え方だった。 「村長は」 「明朝、名を読み上げたあとにお発ちになります。荷馬車はもう手配してあります」 「会えますか」 「明朝の場に、村の方々もおられます」  会えるとは言われなかった。  扉の向こうで、足音が止まった。 「——司教様は」 「何も。今日は一言も」 「では、それで進めます」  足音が離れていった。ヴェッセルは顔を上げなかった。 「明日の朝の順は、これから決めます」 「僕は、そこにはいないんですか」 「必要ありません」  紙束を抱え、ヴェッセルは立ち上がった。扉を開け、廊下の誰かに短く何か言う。  布に包んだものが運ばれてきて、卓の上に置かれた。布の端がひとりでにほどけて、下のものが見えた。  剣だった。  鞘にも柄にも、細かい何かが打ってある。ヴェッセルはそれについて何も言わなかった。 「明朝、これを下げていてください」 「僕がですか」 「他に下げる方がおられません」  帯はこちらで用意します、とヴェッセルは言い、寸法を測る者を明朝よこすと付け足した。フェルドウィンが返事をする前に、その話はもう終わっていた。  ヴェッセルは扉のところで一度足を止めた。 「迎えに参ります」  扉が閉まった。  フェルドウィンは卓の前に立って、しばらくそれを見ていた。それから両手をかけて、持ち上げた。  重かった。  トラマルが顔を上げ、また前足に顎を乗せた。  扉の向こうでは、まだ声が続いていた。数を数え、順を決め、また数え直している。そのあいだに時々、自分の名前が混じった。
カクヨムにて先行公開しています。

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