夏木 花 / 第50話

第13話 最初の頼まれごと

 水の音が、思っていたより大きい。  掘割に渡した仮の板は真ん中がわずかに撓み、足の裏に人の動く重みが伝わってくる。下では男たちが腰まで濁った水に浸かり、掛け声に合わせて杭を沈めていた。 「こちらが、架け替えの現場にございます」  ヴェッセルが板に何か書き足す。 「見るだけ、ですよね」 「ご覧いただくのが、お役目にございます」  棟梁らしい男が泥のついた手を拭きながら上がってきて、深く頭を下げた。それから、川上の古い橋脚を指す。 「勇者様。あちらが、傷んでおる石でして」  言葉は丁寧なのに、目はフェルドウィンの後ろの水面へ戻っていく。説明の続く先は、ヴェッセルの板だった。  足場の杭に巻きつけた縄が、結び目を二つ重ねてある。水に浸かる縄はいずれ膨れる。膨れたら、ほどけなくなる。 「あの、その縄」 「は」 「水が引いたあと、ほどきますか。それとも切りますか」  棟梁の目が、はじめてこちらへ止まった。 「……切ります。よくご存じで」 「うちでも、井戸のときは切ってました」 「さようで」  それきりだった。棟梁はもう一度頭を下げて、下へ降りていく。ヴェッセルの板に、また一行増える。  増えたのは、たぶん橋のことではない。勇者が来た、という一行だろう。自分が動いた分だけ増えるのは、いつもそういう行だった。 「戻りは、第三環を抜けます」 「外環ですね」  言えた。ヴェッセルは頷きもしなかったが、足の向きだけ変えた。  市は、昼を過ぎて人がだれかけていた。風に、干した魚と塩と、濡れた藁の匂いが混じる。トラマルが縄をいっぱいに張って地面を嗅いでいく。  通りの端に、樽を並べただけの店があった。その脇で腕を組んだ女が、こちらを見ている。前掛けの裾が、乾いた塩で白く粉を吹いていた。 「ちょいと、そこの」  ヴェッセルの足が止まらない。女はもう一歩出た。 「勇者様でも、犬の係でも、どっちでもいいよ。話が早いのはどっちだい」 「……たぶん、犬の係のほうです」 「じゃあそっちで」  女は樽の縁を掌で叩いた。 「うちの荷が、ひと月のあいだに三度、足りなくなってんだ」 「足りない、っていうのは」 「朝、市の荷置き場に入る。昼までに店へ運ぶ。そのあいだに、塩の袋がひとつ。次は干し魚の籠。今度は、また塩だ」 「番人は、いないんですか」 「いるさ。数えてんのは入るときだけだよ。出るほうは誰も見ちゃいない」  女将が顎で示した先に、屋根のかかった低い建物がある。口が三つ開いていて、荷車が一台、半分だけ中へ入ったまま止まっていた。 「役所に上げないんですか」 「盗みだって言って上げたらね」  女将は肩の位置を少しも変えずに言った。 「市ごと調べられる。何日か止まる。止まったぶんは、誰も払っちゃくれない。うちの塩より、そっちのほうがよっぽど高くつくんだ」  だから誰も言わない。言わないうちに、また一袋消える。  フェルドウィンは荷置き場の口を見た。三つのうち、いちばん端の口だけ、前の地面に轍がない。 「勇者殿」  ヴェッセルの声が、半歩うしろから届いた。 「そちらは、お役目にございません」 「役目じゃないと、聞いてもいけないんですか」 「お聞きになるのは、ご随意に」  ヴェッセルの指が板の縁を一度なぞって、止まった。 「明日は、貴族院の開院に臨席いただきます。明後日は、大神殿の月の祈りに」  その先は言わない。予定の名前を並べるだけで答えになると思っている顔だった。  女将が鼻を鳴らす。 「無理そうだね。いいよ、悪かった」  背を向けかけた前掛けに、声が追いついた。 「待ってください」  思ったより大きく出た。  昨日、台の下から見上げてきた男の顔が浮かぶ。どうやったらなれるんで、と訊かれて、立ってただけです、と返した。謙遜と取られて、広場いっぱいの手が鳴った。次はもう少しましな返事をしたいと、あのとき思った。  この人は願い事をしに来たわけでも、褒めに来たわけでもない。塩が足りないから、話の早いほうに話しに来た。それだけのことを、まっすぐこちらへ向けてきている。 「僕が、見てもいいですか」 「見るって、何をだい」 「荷の置き方とか、運ぶ順とか。……いなくなったものを捜すのは、たぶん、得意じゃないんですけど」 「置き場所なら、見られます」  女将は少しのあいだ、こちらの顔と、それから犬を見ていた。 「……あんた、変なこと言うね」 「よく言われます」 「ふん。まあ、減るもんじゃないさ」  女将は塩の袋をひとつ持ち上げ、重さを確かめるように下ろした。 「ドルサだ。うちは、この列の三つ目」 「フェルドウィンです」  名乗ってから、勇者とも器とも付けなかったことに気づいた。誰にも咎められなかった。  顔を上げたとき、通りの向こうに見覚えのある姿があった。人の流れの端で柱に肩を預け、外套の女がこちらを見ている。  目が合う。エレナは何も言わず、身じろぎもしない。止めに来た人の立ち方ではなかった。  やがて視線が外れ、人の間を抜けていく。あの人なら、引き受けたのかと訊いてくるだろうと思っていた。訊かれなかったことのほうが、なぜか長く残った。  宿舎に戻ると、廊下の者が立ち上がり、また座った。扉の内側まで入って、ヴェッセルが板を開く。 「明日の刻限は、朝の鐘の二つ前にございます」 「開院のあとは、空きますか」 「昼のあと、大神殿までのあいだに少々」 「そのあいだ、市に行きます」  ヴェッセルは板を持ち上げかけて、やめた。 「……お供が付きます」 「付いてていいです。離れたところにいてください」  それから、付け足した。 「僕が決めました。誰かに訊かなくていいですよね」  ヴェッセルの返事は、すぐには来なかった。 「うかがう先が、ございません」 「じゃあ、決まりです」  扉が閉まる。  床に座ると、トラマルが爪を鳴らして寄ってきて、膝の横に体を落とした。首輪の縄をほどき、指の間で毛羽立ちを確かめてから、また結び直す。 「荷置き場の口、三つあった」  耳が一度だけ動く。 「真ん中と、こっち側の轍は深かった。端のは、なかった」  それが何を意味するのかは、まだ分からない。分からないまま、口の中で轍の数をもう一度数えた。明日、自分の足で見に行く。誰かに言われたからではなく。
カクヨムにて先行公開しています。

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