夏木 花 / 第51話

第14話 家では羊が一頭増えたらしい

 筆の先が、思ったより深く墨に沈んだ。  引き上げると穂先から一滴落ちかけて、慌てて硯の縁で払う。板を支えている書記官は、瞬きひとつしない。 「こちらに」  細長い欄が、一つだけ空けてある。貴族院の広間は天井が高く、開院の口上が上へ上へと逃げていって、意味のある言葉に聞こえない。  欄の中に、名を書いた。  フェルドウィン・フェンレイ。  前後の欄は位と家名で細かく埋まっていて、そのあいだに挟まった自分の字だけが、太くて大きくて、子どもの字みたいに見えた。書き直したい、と思った。直す欄はない。  書記官が板を引き取っていく。柱のそばへ戻って、口上の終わりまで立った。膝の裏が、だんだん自分のものでなくなっていく。  今日、僕がしたのは、名前を書いたことだけだ。  昼を過ぎて、ヴェッセルが板を開いた。 「少々の間、お取りしてございます」 「市に行きます」  供は二人ついた。言った通り、離れて歩いてくれる。それでも通りの真ん中に灰色の上着が二つあれば、それだけで人の目が動くのが分かった。歩くたびに、腰の剣が腿を打つ。  荷置き場の前は、風の抜けない場所だった。干し魚と、濡れた藁と、人の汗。番人が帽子を取って飛び上がるように立つ。 「勇者様! こんなところへ、とんでもねえ」 「あの、荷が出るとき、数えますか」 「ええ、ええ。抜かりはございません。きっちりやっとります」  昨日、女将は、出るほうは誰も見ちゃいないと言った。 「じゃあ、帳面、見せてもらえますか」 「つけとります。それはもう」  番人の目が、こちらの肩越しに供のほうへ流れて、また戻ってくる。帳面は出てこなかった。  樽の列を回る。声をかければ、誰もが手を止めてくれた。止めてくれるのに、返ってくるのは荷のことではない。 「うちの倅に、一言かけてやってもらえませんか。ちょうど今年で」 「あんなお若いのに、大したもんだ」 「災厄ってのは、いつ頃までに来るんで」  袖を掴まれる。振りほどけない。答えられることが一つもないのに、誰も気を悪くしない。笑ってくれる。笑われるより、そのほうが苦しかった。  端の口の前にいた荷主に、ここは使うのかと訊いた。 「使っとりますよ、ちゃんと」  地面には、今日も轍がない。  嘘をついている顔ではなかった。勇者に「使っていません」と答えるのは、怠けていますと言うのと同じなのだろう。  喉の奥がざらつく。 「僕、今日は犬の係で来てるんですけど」  言った瞬間、どっと笑いが起きた。声が耳の奥で膨らんでいく。 「聞いたか、犬の係だとよ!」 「うちの息子にも、そう言ってやってくださいよ!」  悪意はどこにもない。誰も、荷のことを話さない。  ドルサは自分の店の前で、腕を組んで待っていた。 「あたしが言っちまったんだよ」 「……言った?」 「隣の列にさ。勇者様が見てくださるってね」  女将は前掛けで手を拭き、それきり目を逸らさなかった。 「悪かないだろ。みんな、ちっとは安心した」  腹を立てる先を探して、見つからなかった。この人は間違っていない。安心したがっている人を、安心させただけだ。  ただ、安心した人からは、もう本当のことが出てこない。  肩書きを外して訊けばいい。外し方が分からない。剣は置いてこられるかもしれない。顔は置いてこられない。  帰り際、もう一度だけ端の口を見た。轍のない地面に、昨日はなかった藁くずが落ちている。誰かが通ったのだ。荷車ではない、何かで。  宿舎に戻る頃には、日が落ちていた。卓の上に、麻袋が一つ置かれている。  近づいた瞬間に分かった。麦の粉と、乾いた土。うちの納屋の匂いだ。 「村から荷が入っております」  ヴェッセルが袋の口を開く。封は、もう切られていた。 「検分は済んでおります」 「……はい」  出てきたのは、二つ折りの紙が一枚きりだった。  開くと、字が三つあった。  いちばん上は、太くて大きくて、行が右下がりに落ちていく。仮名ばかりで、ところどころ抜けている。 「やねは、ぜんぶ いしですか。きんかは みましたか。とらまるは やせてませんか。おうとのいぬと、けんかしませんでしたか」  声に出して読んでいた。足元でトラマルの耳が動く。読みながら口の端が勝手に上がって、それから、下がった。  その下に、細かくて詰まった字が続く。恥をかいていないか。ちゃんと食べているか。人様の前で村の言葉を使っていないか。息子が何をしているかではなく、どう見られているかばかりが並んでいる。母さんらしい、と思ったら、鼻の奥が急に熱くなった。  いちばん下に、一行だけあった。 「羊が一頭ふえた」  三度読んだ。生まれたとも、買ったとも書いていない。父の字は、囲いの横木に刻む印と同じくらい素っ気ない。それなのに、その一行が一番長く目に残った。  紙を裏返す。何もない。  神託のことは、一字もなかった。あの日のことも、王都のことも、いつ帰るのかも。  書かなかったんじゃない。書けなかったんだ。村長たちが受けた触れは、家の卓の上まで届いている。  屋根は全部が石ではないこと。板の上に石を載せて、風で飛ばないようにしてあること。うちと同じだ、と書けたときだけ、指が軽く動いた。トラマルは痩せていない。よく食べている。王都の犬とは、まだ喧嘩していない。  羊のことは、よかったね、とだけ書いた。  筆を置いて、読み返す。嘘は一つもない。本当のことも、一つもない。 「封は、こちらでいたします」  ヴェッセルが紙を持って出ていく。扉が閉まる音が、いつもより長く耳に残った。  届いたほうの紙は、畳んで上衣の内側に入れた。  トラマルが寄ってきて、胸のあたりを執拗に嗅ぎ始める。鼻息が布越しに熱い。それから、尻尾が床を打ち出した。  袖口に指が触れる。繕いの糸の色が合っていない。妹が縫ったものだ。しばらく、そこを親指で押していた。  明日は、名乗らずに行けないだろうか。  できるかどうかは分からない。ただ、今日一日で誰かが話してくれたことの中に、荷のことは一つもなかった。見るなら、見られない形で行くしかない。
カクヨムにて先行公開しています。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳