夏木 花 / 第34話

第3話 神託の輪

 外庭は、獣の声で埋まっていた。  どこかで山羊が鳴き、それに答えるように犬が吠える。止まり木の上で鷹が翼を打ち、革の紐が張って、また緩む。石を敷き詰めた庭に、各地から来た代表が獣を連れて散らばり、順番を待っていた。  昨日の夕方に門をくぐってから、フェルドウィンが見たのは石の廊下と、この庭だけだった。妹に持たされた本は荷袋の底に入ったままだ。  トラマルは日の当たる隅で伸びをして、それから横になった。  名簿を持った若い聖職者が、庭の中ほどに立った。 「献灯の月の、神託の儀にございます。お名を確かめます」  庭の端から、村や町の名が読み上げられていく。 「カレンの村」  ハーヴィンが立ち上がった。外套の襟を指で直し、息を吸った。 「カレンの村より、村長ハーヴィン、罷り越しました」 「はい」  聖職者は名簿から目を上げないまま、次の名を読んだ。ハーヴィンは口を半分開けたまま少し立っていて、それから座った。 「三日、練ったんだぞ」 「僕は聞いてました」 「お前に言ってどうする」  隣の一団が動いて、猟犬が一頭、鼻先をこちらへ突き出してきた。首に金具の付いた輪をはめている。引いているのは背の高い男で、犬の首の輪を短く握り直した。 「三代続けて領主様の狩りに出とる血だ」  男は誰にともなく言い、それから返事を待つように周りを見た。止まり木の脇に立っていた女が、鷹の足の革を確かめながら顔だけ向ける。 「うちのは学院の使い手の方からお預かりしたものです」 「学院の」 「羽を傷めるので、あまり人を寄せないでいただけますか」  男は口を閉じ、犬を少し引いた。それからフェルドウィンの方を見た。 「そちらの犬は、どちらの血筋で」  フェルドウィンは、うつ伏せて片方の後ろ足を投げ出しているトラマルを見た。 「……納屋の、裏で」 「は」 「拾ったので」  男は目を数度またたいた。女も手を止めていた。 「拾った」 「はい」 「どこの犬か分からんということか」 「分かりません」  トラマルが大きく欠伸をして、寝返りを打った。前足が男の靴の先に当たり、男が足を引いた。 「うちの村で一番賢いのはこいつでしてな」  ハーヴィンが胸を張って言い、それきり誰も何も言わなかった。フェルドウィンは、外套の留め金のあたりを触った。真鍮の冷たさが指に残った。  やがて、庭の奥の扉が開いた。  入る順で少し揉めた。領主の使いだという者が前に立ち、後ろに並ばされた男が何か言い、間に聖職者が入って収めた。フェルドウィンとハーヴィンは、犬を連れて最後尾についた。  石の廊下は短かった。抜けた先が、祈誓の間だった。  円い広間だった。天井の中央だけが円く抜けていて、そこから落ちた光が、床に白い輪を作っている。床にはもう一つ、浅く彫られた輪があった。人の腰ほどの高さの香炉から、細い煙がまっすぐ上がっている。  輪の中央に、麦の穂が束ねて置かれていた。 「輪に順はありません」  広間の中で待っていた神官が言った。若い男で、声がよく通った。 「空いているところに座ってください。獣は膝の前でも、脇でもかまいません」  前に立っていた領主の使いが振り返り、後ろの男と目が合って、どちらも動かなかった。しばらくして、山羊を連れた老人が先に輪の縁に腰を下ろし、それで全員が座りはじめた。  トラマルは伏せて、床の彫り込みに鼻先を寄せて嗅いだ。  壁際に、椅子が一つだけ置かれていた。座っているのは白い髪の老人で、庭にいた誰よりも重そうな衣を着ていた。誰も紹介しなかった。 「前の儀を見た者は、この中にはおられないと思います」  神官は輪の外を歩きながら言った。 「手順は短いものです。私が唱えます。皆さんは、動かずにいてください」 「それだけですか」  輪の向こう側で、猟犬を連れた男が訊いた。 「それだけです」  神官は答えて、それきり説明をやめた。  水を張った浅い器が運ばれてきた。神官はそれを両手で持ち、麦の穂の上から撒いた。穂が音を立てて濡れ、水は床の彫り込みに沿って細く広がっていった。香の煙が、天井から落ちる光の柱を横切って揺れた。  神官が唱えはじめた。 「照らすものよ。示すものよ。器を、われらに示せ」  同じ節が、二度目に繰り返された。  三度目は、少しだけ声が低かった。 「照らすものよ。示すものよ。器を、われらに——」  四度目は、そこで止まった。  誰も続きを言わなかった。神官は器を持ったまま、輪の外に下がった。  あとは、待つだけだった。  床の白い輪が、少しずつ動いていた。フェルドウィンの膝が痺れてきて、体重をかけ替えた。輪の向こうで猟犬が伏せたまま眠りはじめ、飼い主が膝で小突いた。犬は薄く目を開けて、また閉じた。鷹だけが、時々、羽の下に嘴を差し込んで動かしていた。  香が短くなっていく。  誰かの腹が鳴った。誰も笑わなかった。  フェルドウィンは、こういう待ち方を知っていた。羊が仔を産むときも、こうやってただ座って待つ。父はそのあいだ何も喋らない。  光の輪が、床の彫り込みの線をひとつまたいだ。  トラマルが、顔を上げた。  伏せたまま、首だけを起こしている。フェルドウィンは、その目の先を追った。輪の向こう側でもなく、香炉でもなく、扉でもない。何もない。 「トラマル」  小さく呼んだ。耳は動かなかった。  次の瞬間、その背に、光が浮いた。  毛の中から染み出すように、細い線が幾筋も現れて、絡んで、一つの形になった。触れそうな近さなのに、熱も、風も、音もなかった。  短い笑い声がひとつ、輪のどこかで上がった。すぐに止んだ。 「……紋章だ」  隣に座っていた山羊の老人が、身を乗り出した。すぐ後ろにいた領主の使いも膝を立て、光の上に顔を近づけて、そこで息を呑んだ。輪の向こう側の何人かは首を伸ばして、まだ「どこだ」と言っている。  水を撒いた器を持ったまま、神官が立っていた。両手の位置がさっきのままだった。口が動いたが、声にならなかった。  壁際の椅子で、白い髪の老人が、膝の上に組んでいた指を一本、動かした。それだけだった。  フェルドウィンは、トラマルに手を伸ばした。 「触れないでください」  どこからか声が飛んだ。誰の声かは分からなかった。  トラマルは、まだ同じ方を見ていた。それからようやく首を戻し、フェルドウィンの膝に鼻先を寄せて、いつもどおりに息を吐いた。  背中で光っているのが自分では見えないらしく、一度、首を振った。革の紐が鳴った。  輪が崩れはじめた。人が立ち、獣が動き、誰かが誰かに何かを言い、それが庭のざわめきよりも小さい声で広間に満ちていく。ハーヴィンが立ち上がろうとして、外套の裾を踏んで座り直した。  扉が開いた。  庭にいなかった男が二人、まっすぐに輪の中へ入ってきた。濃い色の服を着ていて、聖職者ではなかった。片方が神官に何か短く言い、神官は答えなかった。  もう片方が、フェルドウィンの前で足を止めた。 「フェルドウィン・フェンレイ」  名前を、正しく呼ばれた。それが、この街に来て初めてのことだった。
カクヨムにて先行公開しています。

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