夏木 花 / 第33話

第2話 見送りの朝

 広場の集い石の前には、もう人が集まっていた。  石の脇に荷馬車が一台。麦袋と羊毛の麻袋が段に積まれ、その手前に人の座れるだけの隙間が空けてある。御者のコルドが、車輪の輪金を靴の先で蹴って音を聞いていた。 「乗るのは二人と一匹だな」 「はい」 「犬は荷の上だ。袋の間に入れると羊毛が犬くさくなる」  言われるより先に、トラマルは荷台の縁に前足をかけていた。フェルドウィンが後ろから尻を押し上げてやると、麦袋の上で一度回ってから伏せた。  村長のハーヴィンは、見たことのない外套を着ていた。襟の折り目がまだ立っている。 「村長、それ」 「戸棚の底から出した。虫に食われとらんかったのが、今年一番の吉事だな」  荷台の後ろで、袋をひとつ抱えた男が待っていた。寄り合いで、羊を出せばいい、荷馬車に乗せればいいと言い張っていた男だった。 「羊毛だ。ついでに積んでくれ」 「もう積んどる」 「隙間に入る」 「入れると、そこの犬の座るとこがなくなる」  男は袋を抱えたまま、荷台の犬をしばらく眺めた。それから袋を足元に下ろして、何も言わずに置いていった。コルドは肩を上げただけで、袋を持ち上げて荷の間に押し込んだ。  村の者が次々にトラマルの方へ手を伸ばした。骨をひとつ、干した内臓をひとつ、それから名前も出てこない婆さんが布に包んだ何かをひとつ。荷台の隅に、餞別が小山になっていった。 「あの、四日ぶんには多すぎませんか」 「犬に言え」  誰かが返して、笑いが起きた。フェルドウィンの荷袋には、何も増えなかった。  人の間からサラが出てきて、フェルドウィンの手首をつかんで掌を上に向けさせ、冷たいものを押しつけた。真鍮の留め金だった。 「外套の紐、切れかけてたでしょ」 「よく見てるね」 「見なくても分かる。あんたのは全部そうなってる」  サラはそれから、荷の上のトラマルの首の革紐に目をやった。口が動きかけて、途中で止まった。 「……なに」 「べつに。トラマル、王都で粗相しないでよ」  トラマルは荷の上から、サラを見下ろしている。 「犬に言ってるの?」 「あんたの心配してんの」  サラは言い捨てて、鍛冶場の方へ戻っていった。歩きながら手の甲で前掛けを叩いている。  入れ替わりに、年寄りのヨルンが杖の先で地面を突きながら寄ってきた。 「村から獣を出すというのはな、案外、筋の通った話なんだぞ」 「そうなんですか」 「賢く忠実な犬は導きの光に近しいというからな」  しばらく間があって、村人の一人が吹き出した。 「じゃあ、うちのは導きの光の親戚だ」 「お前んとこのは、鶏を追い回しとるだろうが」 「追っとるだけだ。捕まえたことはない」  笑い声が広場に広がって、ヨルンも一緒になって笑い、それきり誰もその話をしなかった。  荷台に足をかけたところで、袖を引かれた。振り向くと、鍬の柄を杖のようにして立っている男がいた。 「向こうで、鋤の刃がいくらか見といてくれんか」 「僕がですか」 「サラんとこの親父が知りたがっとる。値だけでいい」  値だけでいい、と言われて、フェルドウィンは頷いた。王都で何をするのかは誰からも聞かされていないのに、頼まれごとだけは増えていく。  次に押されたのは腰のあたりだった。ミリアが荷袋の口を両手でこじ開けて、何かをねじ込もうとしている。 「入らないよ」 「入る」  押し込まれたのは、薄い本だった。硬くてごわついた羊皮紙を数枚重ねて綴じてあり、表紙の犬の絵は、朱と青と黄を版で重ねただけの粗い刷りだ。角はすり切れ、真ん中あたりの一枚は下半分が破れてなくなっている。妹が寝る前に必ず脇に抱えているのを、フェルドウィンは何度も見ていた。 「貸してくれるの」 「貸すだけだからね」  ミリアは荷袋の紐を自分で結ぼうとして、途中で諦めて手を離した。それから、広場のざわめきに混ざるくらいの声で言った。 「本当にトトくんを助けた犬がいるんだよ」 「うん」 「ほんとだよ」  フェルドウィンは頷いた。ミリアはそれで済んだらしく、母の方へ駆けていった。母が荷台の方へ包みを持ち上げる手つきをして見せる。三つとも入れたか、という意味だ。フェルドウィンはもう一度頷いた。 「そろそろ出す」  コルドが馬の首筋を叩いた。ハーヴィンは荷台に上がるのに手間取り、後ろから二人がかりで押し上げられた。上がってしまうと、外套の裾を膝の下に几帳面に折り込んだ。  車輪が回りはじめる。集い石が、人の背中に隠れて見えなくなった。  村のはずれの柵に、ミリアがよじ登っていた。両手を頭の上で大きく振っている。 「兄さん! 屋根!」 「分かってる!」 「金貨!」  答える前に、母が後ろからミリアの襟をつかんで、柵から引きずり降ろした。妹の足が地面に着くより先に、荷馬車は道の角を曲がった。  トラマルが荷の上で立ち上がり、後ろを見て、それから向きを変えて前を向いた。麦袋の間に鼻先を突っ込み、餞別の包みをひとつ選り出して、抱え込むようにして伏せる。ハーヴィンがその様子を見て、満足げに頷いた。 「賢い」  包みを開けているだけだった。  街道に出ると、羊の匂いはすぐに消えた。  それでも羊には三度道を塞がれた。群れが退くのを待つあいだ、ハーヴィンは荷の縁を握って前を向いたまま、小さな声で何か言っていた。 「カレンの村より、村長ハーヴィン、罷り越しまして」 「村長」 「……罷り越しました、の方がいいか」 「言う相手がいるんですか」 「おらんかもしれん。おったときに困る」  ハーヴィンは咳払いをして、最初から言い直した。言い直すたび、前より長くなっていた。コルドが手綱を持ち替えて、道の先へ顎をしゃくった。 「羊、退いたぞ」  やがて土が変わり、荷馬車の揺れ方まで変わった。刈り入れの終わった畑が続くようになる。同じ月でも、こちらではもう仕事が済んでいる。  通り過ぎた村の辻に、細長い木の飾りが数本、壁に立てかけたままになっていた。塗りが半分のところで止まっている。 「献灯の月だってのに、今年は出さんそうだ」  荷を渡しに来た男が、荷札を数えながらコルドに言った。 「王都からのお達しでな」 「理由は」 「聞いとらん」  コルドは麻袋の口を締め直しただけだった。ハーヴィンは膝の上で指を組み替え、その組み替えた形のまま、しばらく動かなかった。  夜は荷台で寝た。火の脇で、フェルドウィンは荷袋の底から妹の本を出した。  字は少なく、どれも平たい言葉で、指でなぞらなくても読めた。母にお使いを頼まれたトトという名の子が、帰りに道を見失う。濃い霧の中にぽつんと立つトト。そこに現れた犬の絵は、尻尾が小さなカンテラのように温かく光っていた。  めくると途中の頁が破れていた。最後の頁では夜の草原に、消えかけた影がひとつだけ残っている。 「うちの婆さんも同じのを持っとった」  火の向こうから、ハーヴィンが覗き込んで言った。 「村で作ってるんですか」 「行商が置いていくんだ。どこの村の子も持っとるよ」  ハーヴィンはそれきり火に向き直った。フェルドウィンは本を閉じて荷袋の底に戻し、外套をかぶった。餞別の小山の脇で、トラマルは息をするたびに脇腹を上下させていた。朝には骨がひとつ減っていた。  三日目の夕方、丘をひとつ越えた。  コルドが手綱を緩めた。ハーヴィンが腰を浮かせて、そのまま座り直した。  地平の端まで、灰色の帯が伸びていた。壁だ。どこで切れているのか、目で追っても終わりが来ない。その内側に屋根が重なっていた。外側は低く、奥へいくほど段になって高くなり、いちばん奥の一群だけが、傾いた日を上から受けて明るい。 「あれ全部が、街ですか」  フェルドウィンが訊くと、コルドは壁の裾のあたりを指した。 「外にも張りついとる。あれも街だ」  ハーヴィンが外套の襟をもう一度整えた。朝から何度目かの、同じ手つきだった。 「あそこから内側は貴族街だ」  コルドが、いちばん高い一群を顎で示した。 「僕たちは?」 「外」  フェルドウィンは屋根の色を目で追った。石なのか、それとも別の何かなのか、ここからでは分からない。妹に何と言ってやればいいのか、まだ一つも思いつかなかった。  荷の上で、トラマルは寝ていた。  コルドが舌を鳴らし、荷馬車は坂を下りはじめた。
カクヨムにて先行公開しています。

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