ぽて / 第2話

第2話

 白石栞という名前を知るより先に、私は彼女の音を知った。 ​ 大学へ入って半年ほど経ったころだった。  その日は講義がひとつ休講になり、予定外に空いた九十分をどう使うか考えながら校舎を歩いていると、どこからかヴァイオリンが聞こえてきた。 ​ それは知らない曲ではなかった。  だから足が止まったのは、そのせいではない。 ​ 上手い演奏なら、いくらでも聴いたことがある。  音程が正確で、弓の運びが滑らかで、技術的な粗がない。そういう演奏に感心することはあっても、それだけで足を止めるほど私は素直ではない。 ​ けれど、その音には景色があった。 ​ 最初に見えたのは、水だった。  深い青色をした、静かな水面。 ​ 風はなく、空と水の境界すら曖昧な場所に、一滴だけ雨が落ちる。 ​ 波紋が生まれ、ゆっくり広がり、消えるより前にまた一滴。その次は少し遠く。今度は二滴。波紋と波紋が重なって、それまで鏡のようだった水面が少しずつ形を変えていく。 ​ 私は廊下の真ん中で立ち止まった。  音は、突き当たりにある小さな練習室から聞こえていた。 ​ 扉は少しだけ開いている。  覗くつもりはなかった。演奏している人間が誰だろうと、私には関係がない。音楽は、演奏者の顔を知らなくても聴ける。 ​ そう思っていたのに――次の音が鳴った。  水面を渡る風が、急に向きを変える。 ​ その瞬間、私は扉の隙間を見ていた。 ​ 銀色で肩に届かない髪。ヴァイオリン。細い背中。得られた情報はそれだけ。 ​ 顔はよく見えない。  けれど私は、その場を離れられなくなった。  最後の音が消えるまで、廊下から動けなかった。 ​ 演奏が終わったあと、私は何事もなかったように歩き出す。  その日の夜、大学の演奏会情報を調べていた。 ​ 自分でも珍しいと思った。演奏者の名前なんて、普段ほとんど気にしない。作曲家と曲名。それが分かれば十分だった。なのに私は、銀色の髪を手掛かりに写真を探していた。 ​ 見つけるのに、それほど時間はかからなかった。 ​ 白石栞。ヴァイオリン専攻、二年。同い年だった。 ​「へえ」 ​ 声が出たがそれだけだった。 ​ 翌日、食堂で見つけた彼女は、うどんを食べていた。 ​ 私は少しだけショックを受けた。もちろんヴァイオリニストもうどんくらい食べる。そんなことは分かっている。 ​ でも昨日、あれだけ綺麗な音を作っていた人間が、割り箸を割るのに失敗して片方だけ妙に短くなっているのを見ると、何とも言えない気持ちになった。 ​「……何」 ​ 目が合った。 ​「別に」 「さっきから見てるけど」 「見てない」 「見てたよ」 ​ 彼女は短くなった割り箸を持ったまま、私を訝しげに見た。 ​「知り合いだっけ」 「違う」 「じゃあ何?」 「白石栞」 「なんで名前知ってるの?」 「ヴァイオリン」 ​ 彼女の眉が寄った。 ​「私の名前、ヴァイオリンじゃないけど」 「知ってる」 「じゃあ何?」 「昨日、聴いた」 ​ そこまで話してようやく通じたらしい。 ​「ああ。もしかして練習室の?」 「うん」 「ふぅん……聴いてたんだ」 「廊下で」 「別に入ってくればよかったのに」 「なんで?」 「立って聴くより楽でしょ」 ​ それだけ言って、彼女はうどんを啜った。 ​「また聴いてもいい?」 ​ そう言うと、今度は彼女の箸が止まった。 ​「……私の?」 「うん」 「なんで?」 「好きだから」 ​ 彼女は咳き込む。 ​「大丈夫?」 「だ、大丈夫」 ​ 水を飲んでいるのになぜか顔が赤い。 ​「急に変なこと言わないで」 「演奏がだけど」 「分かってる!」 ​ なぜか怒られ、その時この人は少し変だと思った。

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