ぽて / 第1話

第1話

​ 最初の一音で、部屋から温度が消える。 ​ 弓が弦を擦る。  細く、鋭く、何かを引き裂くような音が走ったかと思えば、それを追いかけるように次の音が重なり、また次が重なる。  ひとつひとつは小さな震えにすぎないはずなのに、連なった瞬間、それらは凍える身体を容赦なく揺さぶる寒さになった。 ​ 窓の外に雪はなく、十二月にはまだ遠い。 ​ 大学の中庭には色を失いかけた木々が立ち、傾いた午後の日差しが、練習室の古い床を細長く照らしている。 ​ それなのに、私には雪が見える。 ​ 白く、どこまでも広がる雪景色。 ​ 息を吸えば肺の奥まで凍りつきそうな空気の中で、風が雪の表面を薄く削り、さらさらと地面を這っていく。足を踏み出せば靴底の下で氷が鳴り、立ち止まれば寒さが爪先から這い上がってくる。 ​ だから、走る。  凍った地面を蹴って、滑りそうになりながら、それでも走る。 ​ 速く。もっと速く。 ​ 追われているわけでもないのに、音が私を急かしてくる。 ​ ――銀色の髪が揺れた。  窓辺に立つ白石栞は、目を閉じていた。 ​ 顎と肩の間にヴァイオリンを挟み、左手の指を忙しなく踊らせながら、右手に持った弓を走らせている。 ​ 細い腕から、どうしてこんな音が出るのだろう。  初めて聴いたときにも、そう思った。 ​ 彼女の弓は、冬を知っている。 ​ 皮膚に突き刺さる風の冷たさも、雪を踏んだときの頼りない感触も、凍えた指先へ息を吹きかけたときの僅かな温もりも。  たった四本の弦から、何もないはずの場所へ季節を連れてくる。 ​ 私は椅子の背もたれへ身体を預けたまま、ぼんやりとその姿を眺めていた。  少なくとも、栞からはそう見えているだろう。 ​ 実際には、聴き逃した音などひとつもない。 ​ 今日の演奏は、少しだけ速い。  初めて聴く人間なら気づかないだろうし、昨日の演奏を覚えていなければ比較することもできない程度の違いだ。  弓の動きもいつもより強い。 ​ 何かあったのだろうか。 ​ そこまで考えて、私はやめた。  音楽に余計なものを持ち込むのは好きではない。 ​ 音は音だ。  悲しい人間が奏でたから悲しく聞こえるわけではないし、幸福な人間が奏でたから明るくなるわけでもない。  少なくとも私は、そういうふうに聴きたくない。 ​ けれど、今日はどうしても、音の向こう側にいる栞が気になった。 ​ 銀色の髪が揺れる。  閉じた瞼の上を、窓から差し込む光が滑っていく。 ​ 私は、この人のヴァイオリンが好きだ。  それだけは、ずっと前から知っている。 ​ だからこそ『好き』と、数日前に彼女が口にした、たった二文字の言葉が邪魔だった。  音楽を聴いているのに、その隙間から何度も蘇ってくる。 ​ まったく困ったことをしてくれたと思う。 ​ どうして私がいま、こんな気持ちで彼女の『冬』を聴いているのか。 ​ 話は、もう少し前に遡る。

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