芦名 雅 / 第45話

第14話 道端のプロポーズ

 翌日の放課後、拓海は指輪を持ったまま街へ出た。  場所はまだ決まっていない。  昨日見て回った候補は、どれも悪くなかった。海辺も、空中庭園も、歴史区画も、二人にとって意味のある場所だ。けれど「意味のある場所を選ばなければ」と考えるほど、言葉まで作り物めいていく気がした。  結局、拓海は駅前の商業区を歩いていた。  夕方の街は帰宅する人々で混み始めている。高層建築の間を無音の輸送車が滑り、歩道沿いの店からは焼き菓子や香辛料の匂いが流れてくる。千年前なら駅前にありそうな雑多さだけは、未来になっても残っていた。  端末が鳴る。  音姫からだった。 「もしもし」 『拓海くん、今どこですか』  拓海の足が止まる。 「……なんで聞くの」 『夕食の買い物をしているので、近くなら合流しようかと思いまして』 「それだけ?」 『それだけです』 「本当に?」 『その確認の仕方、昨日から怪しいですよ』 「何でもない!」 『では、何でもない人として答えてください』 「商業区」 『私も近くです。十五分くらいで行きます』 「え、待っ――」  通話が切れた。  拓海はポケットの指輪へ触れた。  まだ渡す場所も決めていない。  言葉も、昨夜何度も考えて全部消した。 「今日じゃない……よな」  そう呟いた直後、自分で引っかかった。  今日じゃないなら、いつなのか。  ちゃんとした場所が見つかってから。  ちゃんとした言葉ができてから。  ちゃんとしたタイミングが来てから。  それを繰り返して、千年前の自分は嫌だという一言さえ先送りにした。  今度は逃げないと決めた。  とはいえ、だからといって人通りの多い道端でいきなりというのも違う。 「いや、違うだろ……」  自分に言い聞かせているうちに、音姫が見えた。  買い物袋を片手に、少し速足でこちらへ来る。人間に戻って一年を越え、走れば息が切れる身体になった。それでも拓海を見つけた瞬間だけ、歩調が速くなる癖は変わらない。 「お待たせしました」 「別に待ち合わせじゃなかったけどな」 「でも待っていたでしょう?」 「十五分だけ」 「短いですね」 「比較対象を千年にするな」  音姫は笑った。  その視線が、拓海の上着のポケットへ一瞬だけ落ちる。  箱の形が出ているわけではない。  それでも、何かを隠していることくらいは分かっているのだろう。 「何かあります?」 「あるけど、まだ秘密」  音姫は数秒黙った。 「……分かりました」  本当に、それ以上聞かなかった。  歩き出す。  二人の間を、買い物袋が軽く揺れる。  拓海の方が落ち着かなかった。 「気にならないの?」 「気になります」 「聞かないんだ」 「聞かないと決めていますから」 「調べたりも?」 「しません」 「三分で分かるって前に言ってたよな」 「二分半くらいにはなっています」 「技術上げるな!」 「冗談です」  音姫は前を向いたまま続ける。 「秘密にする自由もある、と二人で決めました。だから、拓海くんが話したくなるまで待ちます」  その言葉には、ほんの少しだけ力が入っていた。  平気だから待てるのではない。  知りたいし、気になるし、悪い想像もする。  それでも調べず、拓海が口を開くまで待つ。 「いつまで?」 「拓海くんが話したくなるまでです」  千年待った人間が言うには、重すぎる返事だった。  拓海は思わず立ち止まった。  音姫も数歩先で止まり、振り返る。 「どうしました?」 「もっとちゃんとした場所で言うつもりだった」  音姫の目が少し大きくなる。 「何を、ですか」 「それは今から言う」  自分で言ってから、心臓が急に速くなる。  音姫も察したらしい。買い物袋を持つ手に力が入った。 「ここ、道端ですよ?」 「分かってる」 「人、多いですよ?」 「見れば分かる」 「私は待てますよ」  その一言で、拓海は決めた。 「いや。待たなくていい」  音姫が黙る。  夕方の歩道を人が行き交っている。  買い物帰りの家族。  学校帰りらしい学生。  停留所へ急ぐ会社員。  隣の店では配送機が荷物を積み込み、信号が変わるたび人の流れが二人の脇を抜けていく。  誰も二人のために世界を止めてはいない。  千年を越えた物語の続きにしては、あまりにも普通の場所だった。  拓海は深呼吸をした。 「音姫」 「はい」 「最初に一個だけ言う」  音姫が緊張したように背筋を伸ばす。 「これは、千年待ってくれた埋め合わせじゃない」  音姫の瞳が揺れた。 「お前が人魚の肉を手放したから、その褒美でもない。俺が逃げたことの償いでもない」  指輪の箱を出す前に、それだけは言っておきたかった。 「待ってくれたことには感謝してる。俺がいなくなったせいで、お前が苦しんだことも忘れない。でも、それだけでこの先を決めるのは違うと思う」  頭の中で何度練習しても、実際に本人を前にすると言葉は綺麗に並んでくれない。  それでも、拓海は続けた。 「俺が一緒にいたいのは、千年前のお前だけじゃない」  音姫の目に涙が溜まる。 「千年待ったお前だけでもない」 「……はい」 「人間に戻って、蚊に刺されて喜んで、風邪ひいて、友達の名前を検索しかけてやめて、玉ねぎを粉にして、ケーキ二人分で喜ぶ今のお前が好きなんだよ」  音姫が泣きながら笑った。 「最後の方、少し格好悪いです」 「うるさい。今必死なんだよ」 「はい」 「だから、来年も一緒にいたい。その次も。一緒に飯食って、喧嘩して、遅くなるなら連絡して、くだらないことで笑いたい」  拓海は箱を取り出した。 「ずっと、とは言わない」  音姫が瞬く。 「人間に戻った俺たちに、永遠なんてないから」 「はい」 「でも、ある分は一緒に使いたい」  箱を開ける。  小さな指輪が夕方の光を受けた。 「結婚しよう」  音姫は泣いた。  道端で、盛大に。  通行人が何事かと振り返り、近くのベンチにいた老夫婦が事情も知らないまま拍手をした。配送機が二人を避けるため器用に進路を変え、学生たちが「プロポーズじゃない?」と小声で騒ぐ。  拓海は恥ずかしさで顔が熱くなった。 「泣きすぎ」 「だって……」 「だって?」 「シミュレーションでは、もっと格好いい場所でした」 「してたのかよ!」 「三千七百二十通り」 「多い!」 「夜景の見える軌道庭園、海上レストラン、千年前の街並みを再現した区画、竜宮城の門前――」 「最後だけ縁起悪くない?」 「どれも候補でした」 「俺より準備してるじゃん」 「千年ありましたから」 「またそれで全部説明する!」  音姫は涙を拭いながら笑った。 「でも、そのどれよりも今のが一番よかったです」 「道端だぞ」 「今、言ってくれたので」  その一言で、拓海は何も言い返せなくなった。 「返事は?」  音姫が目を丸くする。 「え?」 「まだ聞いてない」 「私が断る可能性を考えていたんですか?」 「考えるだろ普通!」 「三千七百二十通り全部、私が受ける前提でした」 「シミュレーションが強引すぎる!」  音姫は一度息を整えた。  そして、今度は茶化さずに拓海を見る。 「はい」  声が少し震えた。 「結婚します」  拓海の肩から、ようやく力が抜けた。 「……よかった」 「今さらですか」 「今さらだよ」  指輪を音姫の指にはめる。  サイズは合った。 「なんでサイズ分かったんですか」 「前にお前、自分から教えただろ。アクセサリー店の前で」  音姫が瞬きをする。 「……覚えてたんですか」 「聞いてもないのに言われたら、そりゃな」 「将来、必要になるかもしれないと思ったので」 「本当に必要になったのが、なんか腹立つ」  音姫が笑う。 「内側、見て」 「内側?」  指輪を外すのを惜しみながら、音姫が覗き込む。  四つ葉の刻印に気づいた瞬間、表情が変わった。 「覚えてたんですか」 「俺は忘れてた。お前に教えてもらった」  拓海は少し照れながら言う。 「だから今度は、俺も覚えとく」  音姫はまた泣いた。 「泣きすぎ」 「今日は許してください」 「今日だけな」 「結婚式でも泣きます」 「予約すんな」 「子供ができた時も」 「話飛びすぎ!」  周囲の人々が笑いながら二人を避けていく。  格好いいプロポーズではなかった。  けれど拓海には、逃げずに今言えたことの方が大切だった。  しばらくして、人の流れが少し落ち着いた頃。二人は歩道脇の低いベンチへ並んで座った。  音姫はまだ指輪を見ている。  拓海はさっきまでの勢いが嘘のように何も言えなくなり、通り過ぎる人の足音や、店じまいを始めた露店の金属音を聞いていた。 「……俺たち、婚約したんだよな」 「はい」 「なんか実感ない」 「私はあります」 「早いな」 「千年分、予習しましたので」 「その予習、役に立ってないだろ。道端だったぞ」  音姫は笑ったあと、少しだけ真面目な顔になった。 「拓海くん」 「ん」 「本当に、千年待ったからではないんですね」  質問ではなく、確認に近い声だった。  拓海はすぐには答えず、指輪のはまった彼女の手を見た。  玉手箱を開ける前、失敗した時のために残した映像の中で、音姫は言っていた。  自分の千年は、拓海に返してもらうための借金ではない、と。 「うん」 「待ってくれたことには感謝してる。俺が逃げたことは、たぶん一生忘れない。でも、それでお前と結婚するんじゃない」 「はい」 「俺は今のお前が好きだから結婚したい」  音姫は俯いた。  涙が一滴、指輪の上へ落ちる。  慌てて拭おうとして、自分で笑った。 「それが、一番嬉しいです」 「ならよかった」 「でも喧嘩した時には、千年待ったことを少しくらい使ってもいいですか」 「借金じゃないって話した直後だぞ!」 「冗談です。七割くらい」 「三割本気じゃねえか!」  音姫は声を上げて笑った。  笑い終わると、昔のように拓海の袖へ指をかける。  ただし掴まない。  引っ張らない。  指先を置くだけだった。 「拓海くん」 「ん」 「待たなくていいって、言ってくれてありがとうございました」  拓海はその手へ自分の手を重ねた。 「今度からは、一緒に決めよう」 「はい」  帰り道、二人はスーパーへ寄った。  音姫が買い物袋を持ち、拓海が指輪の箱を持つ。 「今日の夕食、何にします?」 「今から普通に夕飯の話するの?」 「婚約しても、お腹は空きます」 「まあ、そうだな」 「カレーはどうですか」 「この前食った」 「では魚」 「いいよ」  何でもない相談をしながら歩く。  夕方の街は二人を祝うために止まってはくれなかった。  それでよかった。  これから欲しいのは、世界を止める永遠ではなく、こういう普通の一日を二人で積み重ねることだった。

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