芦名 雅 / 第38話

第7話 ヤンデレと、普通の恋を始める方法

「友達からやり直す」  言った本人である拓海は、翌朝から後悔した。音姫が真面目すぎた。 「おはようございます、友達の拓海くん」 「その言い方やめろ」 「友達なので朝食を作りました」 「友達は毎朝家に入ってこない」 「合鍵を持っている友達です」 「返せ」 「……はい」  音姫は世界の終わりみたいな顔で、合鍵を差し出した。 「そんな世界の終わりみたいな顔する?」  音姫は本気で「普通の友達」を学ぼうとしていた。  その日の昼、拓海の端末へ妙なメッセージが届いた。 『友達同士の適切な連絡頻度について質問です。一時間に一回は多いでしょうか』 『多い』  三十秒後。 『三時間に一回』 『用事がある時だけでいい』  五分後。 『用事を作ればいいということですね』 『違う』  さらに五分後。 『では今日の夕食は何がいいですか。これは用事です』  拓海は画面を見ながら笑った。千年前なら、音姫は好みを勝手に予測して料理を用意しただろう。今は、聞いている。不器用でも、答えを自分で決めずに待っている。 『カレー』  送ると、既読は一秒でついた。 『分かりました。友達用の辛さにします』 『恋人用の辛さとかあるの?』 『あります』 『怖いから聞かない』  翌朝、音姫は一冊のノートを持ってきた。表紙には几帳面な字で『友達規約(草案)』と書かれている。 「……何これ」 「昨日のやり取りを踏まえて作りました。普通の友達になるための暫定規約です」  音姫は本気だった。第一条は『返信を催促しない』。第二条は『既読を受信直後につけない』。第三条は『相手が外出するとき、同行の許可を自動的に取得したものと解釈しない』。 「二条、なんでわざと既読遅らせるんだよ」 「一秒でつけると重いかと思って」 「普通になるために不自然になってる」 「難しいですね、普通」  ページをめくると、条文は十一まで続いていた。連絡、食事、待ち合わせ、私物、位置情報。どれも千年前の音姫なら考えもしなかった境界線ばかりだ。笑えるほど堅苦しいのに、その一行ずつを自分で書いてきたことだけは、拓海には笑えなかった。 「十二条は?」  最後の欄だけ、妙に広く空いている。音姫はノートを閉じた。 「協議中です」 「嫌な予感しかしない」 「友達にも、将来性は必要です」 「規約で将来を囲うな」  音姫は少しだけ笑った。その笑い方は、叱られて誤魔化す時のものではなかった。自分で間違えながら覚えていくことを、ほんの少し楽しみ始めた顔だった。それでも以前とは違った。音姫は拓海の端末を勝手に確認しなくなった。外出先を聞くときも、 「どこへ行くんですか」  ではなく、 「よかったら教えてください」  最初の頃、その一言を言うたび音姫の肩には力が入った。拓海が「今日は一人で出る」と答えると、笑顔のまま三秒ほど固まる。 「どこへ行くか、聞かないの?」 「よかったら教えてください、と言いました」 「いや、今の顔が全力で聞いてる」 「表情は規制対象外です」 「抜け道を探すな」  それでも音姫はついてこなかった。拓海が一人で街を歩き、夕方に帰宅すると、玄関の前で音姫が座っていた。 「何してるの」 「待っています」 「家の中で待てばいいだろ」 「帰ってくるところを見たかったので」  拓海はため息をついた。 「ただいま」  音姫の顔がほどける。 「おかえりなさい」  たった数時間。けれど彼女にとっては、「待てば今日中に帰ってくる」という経験そのものが新しかった。拓海は靴を脱ぎながら思った。千年分の恐怖は、千年分説明して消えるわけではない。こうして一日ずつ、帰ってくる実績を積むしかないのだ。もちろん、うまくいく日ばかりではなかった。一度だけ、拓海が連絡を忘れて帰宅が三時間遅れたことがある。友人と話し込んで、端末の充電も切れていた。玄関を開けると、音姫が立っていた。笑っていなかった。 「ただいま」  返事がない。 「音姫?」 「何時ですか」 「ごめん。充電切れて」 「何時に帰ると言いましたか」 「七時」 「今、十時です」  声は静かだった。だからこそ、拓海は昔の怖さを思い出した。 「だからごめんって」 「私は三時間、何を考えていたと思います?」 「でも三時間だろ」  言った瞬間、音姫の顔が凍った。拓海も自分の失言に気づいた。三時間。自分には三時間。音姫には、千年の始まりと見分けがつかない三時間。 「……ごめん」  今度は言い訳せずに言った。音姫は俯いた。 「私も、ごめんなさい」 「なんでお前が」 「怖くなったら、また監視したくなりました」 「した?」 「しませんでした」 「そっか」 「でも、したかったです」  拓海は靴を脱ぎ、音姫の前に立った。 「次から充電切れそうなら先に連絡する」 「はい」 「遅れる時も」 「はい」 「お前も、怖くなったら勝手に調べないで、怖いって言え」  音姫は少し迷ってから頷いた。普通の恋は、喧嘩しないことではない。喧嘩したあと、逃げずに戻ってくることなのかもしれない。  その夜、二人は冷めた夕食を一緒に温め直した。たったそれだけ。でも音姫にとっては大きな変化だった。拓海も変わった。以前なら一人で出かけたかった。今は時々、自分から誘った。 「今日、歴史区画行く?」  音姫が固まる。 「……今、誘いました?」 「誘った」 「私を?」 「他に誰がいる」  音姫はその場でしゃがみ込んだ。 「どうした!?」 「千年待ってよかった……」 「一回誘っただけで重い!」  二人はデートではない外出を重ねた。最初のうちは、本当に「友達らしいこと」を一つずつ試した。待ち合わせは現地集合。音姫が三時間前から待つのは禁止。食事は毎回音姫が払わず、交代制。帰宅後の行動報告も不要。 「友達って、規約が多いんですね」 「お前専用の規約だよ」 「では第十二条に、週三回以上のハグを」 「却下」 「審議を要求します」 「却下」  そんな馬鹿なやり取りをしながら、二人は千年前にはできなかった距離の測り方を覚えていった。映画。水族館。未来の遊園地。千年前の料理を再現する店。音姫は何でも知っているようで、意外なことを知らなかった。 「プリクラ?」 「知らないの?」 「千年前に流行っていたことは知っていますが、拓海くんと撮ったことはありません」  歴史施設に復刻機があった。二人で入る。画面に顔が映る。 「近い」 「狭いので」 「わざと寄ってない?」 「狭いので」 「二回言った」  撮影。音姫は笑わなかった。緊張で表情が固まっていた。出来上がった写真を見て、拓海は吹き出す。 「お前、顔硬っ」 「だって」 「千年生きてプリクラで緊張するなよ」 「拓海くんと撮るのは初めてです」  拓海は笑いかけた口を閉じた。さっきまでのからかいが、急に少しだけ恥ずかしくなる。音姫は写真を大切そうにしまった。 「これ、日記に貼ります」 「まだ日記書いてるの?」 「もちろん」 「今日何書く?」  音姫は考えた。 「『拓海くんから誘われました』」 「それだけ?」 「十ページくらい使います」 「長い!」  帰り道。音姫が急に立ち止まった。 「拓海くん」 「ん?」 「私、最近怖いんです」 「何が」 「幸せなのが」  拓海は黙る。 「千年間、帰ってくる日だけを考えていました。帰ってきたら全部終わると思ってたんです」 「終わる?」 「待つことが」  音姫は自分の手を見る。 「でも帰ってきたら、今度は失うのが怖くなりました」 「……」 「人間に戻ったら、もっと怖くなると思います」  そう言った直後、音姫の指が胸元を押さえた。 「どうした?」 「……何でもありません。一瞬だけ、身体だけ置いていかれたような感じがして」 「それ、何でもなくないだろ」 「もう治まりましたから」  音姫は笑ってごまかした。拓海は気になったが、その時はそれ以上追及しなかった。玉手箱。二人の間に残っている最大の問題。拓海は答えを急がなかった。 「怖くていいんじゃない?」 「え?」 「俺も怖いよ」 「拓海くんが?」 「親も友達も全部いない世界だぞ。俺、今お前がいなくなったら本当に一人だ」  音姫が目を見開く。拓海自身、言ってから気づいた。そうだ。今、この世界で。自分の昔を知っているのは音姫だけだ。 「俺、お前に依存し始めてるかも」 「歓迎します」 「即答すんな」 「相互依存は愛の基本です」 「違うと思う」  笑った。でも拓海は、音姫の手を取った。 「依存じゃなくてさ」  拓海は一度、言葉を探した。 「お前しか昔の俺を知らないから、頼ることはあると思う」 「はい」 「でも、それを理由に全部お前に任せたら、今度は俺がお前を縛るだろ」  音姫が少し驚いた顔をした。 「私、縛られるのは嫌いじゃありません」 「物理の話にするな」 「冗談です」 「半分本気だろ」  音姫は笑った。拓海も笑った。  それから、少し真面目な声で続ける。 「一人でも立てるけど、一緒にいたい。たぶん、そういうのがいい」  音姫は何度かその言葉を口の中で繰り返した。千年間、「一人で立つ」ことだけは誰より上手くなってしまった少女にとって。 「一緒にいたいから一緒にいる」という単純な選択は、意外なほど難しかった。 「はい」 「一緒に生きるって、そういう怖さも含むんじゃない?」  音姫は握られた手を見る。 「拓海くん」 「何」 「友達って、手をつなぎますか?」  拓海は固まった。 「……場合による」 「では今日は、そういう場合ということで」  音姫が指を絡める。恋人つなぎ。 「お前それ知ってて聞いただろ!」 「千年勉強しました」 「何を勉強してんだ!」  音姫は楽しそうに笑った。その横顔を見て。拓海はようやく認めた。自分はもう。千年前とは違う意味で、音姫から逃げられなくなっている。  その夜、別れ際に音姫の足が一瞬だけ止まった。 「音姫?」 「……大丈夫です。また、身体だけ少し置いていかれた感じがしただけです」  今度は拓海も笑えなかった。玉手箱を「いつか」の問題にしておける時間は、もう長くないのかもしれない。

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