むかいぬこ(@mukainuko) / 第89話

第4話 放課後の図書館

「はあ……」 ため息をついて、私は机の上に突っ伏した。 目の前にはノートパソコン。 画面には、さっきからほとんど変わっていない文章。 書いては消し、書いては消しを繰り返しているうちに、カーソルだけが規則正しく点滅している。 なんだか急かされているようで腹が立つ。 「分かってるよ……」 小声で呟いてみた。 当然、カーソルは止まってくれない。 官能小説を書き始めてみたものの、早くも大きな壁にぶつかっていた。 問題は、官能シーンである。 出来事そのものなら書ける。 誰が何をして、相手がどう反応したのか。参考になる小説を読んで、それらしく文章にすることくらいはできる。 でも――。 そのとき紗栄子が何を感じているのかが、分からない。 恥ずかしいのか。 怖いのか。 それとも、好きな人に触れられたら嬉しいものなのか。 そこから先になると、途端に想像が止まってしまう。 「経験ないもんなあ……」 言ってから、誰かに聞かれていないか周囲を見回した。 ここは大学の図書館だ。 放課後ということもあって利用者はまばらだけれど、静かなぶん、小さな声でも妙によく響く。 幸い、誰もこちらを気にしていなかった。 私は胸を撫で下ろし、机の上に置かれた三冊の文庫本へ目を向けた。 全部、官能小説。 ネットの古本屋で、一冊一円だった。 三冊買って三円。 ものすごく得をした気分になった。 ――注文するときまでは。 送料、七百五十円。 本体価格の二百五十倍である。 「三日分の食費……」 三千八百円で給料日まで生き延びようとしていた紗栄子のことを、私は笑えない。 もっとも、あの子の金欠は私が書いたものなのだけれど。 それだけの投資をしたのだから、何か得るものはあるはずだと思って三冊とも読んでみた。 勉強にはなった。 知らなかった表現もたくさんあったし、「こんなふうに書くんだ」と感心したところもある。 それを参考に、紗栄子の場面も書いてみた。 書けることは書けた。 でも、自分で読み返してみると、何かが違う。 読めば何をしているのかは分かる。 でも、そのとき紗栄子が何を感じているのかが分からない。 参考にした文章を、自分の登場人物に置き換えているだけ。 これでは描写というより、模写だ。 私は、紗栄子がいろいろな経験をすることで何を感じ、どう変わっていくのかを書きたい。 そこが書けなければ、たとえ官能小説でも、ただ出来事を並べただけになってしまう気がする。 「う~~~ん……」 もう一度、机に突っ伏した。 経験がないなら、せめて実際の映像でも見れば何か分かるかもしれない。 そう思ってはいる。 問題は、見る環境がないことだ。 私の部屋にはテレビがない。 もちろん、パソコンもない。 あるのはスマホだけ。 動画を長時間見れば通信量が気になるし、そもそも大学の図書館でそんなものを見る勇気はない。 一応、図書館のパソコンからアクセスできないか試したことはある。 きっちり遮断された。 当たり前だ。 大学の図書館で何をしようとしているんだ、私は。 「……手詰まりだ」 椅子の背もたれに身体を預け、そのまま天井を見上げる。 こうしていても、いい文章が降ってくるわけではない。 分かっている。 でも、たまには天井から何か降ってきてもいいと思う。 「綾瀬さん、どうしたの。もしかして、途方に暮れてる?」 代わりに、後ろから声が降ってきた。 「わっ」 振り返る。 早川文剛《はやかわぶんごう》が立っていた。 同じ文学部の二年生で、文藝サークルの仲間。 もっとも、文藝サークルといっても、今ではまともな活動をほとんどしていない。部室へ行っても誰もいないことの方が多く、私と早川君も、顔を合わせれば話をする程度だ。 「びっくりした……」 「ごめん。何回か声かけたんだけど」 「え、そうなの?」 まったく気づかなかった。 「ずいぶん難しい顔してたよ」 「ああ……ちょっと小説を書いてて」 「へえ。また何かのコンテスト?」 「え、ええ……まあ……」 官能小説のコンテストです。 とは、さすがに言いにくい。 早川君も小説を書く。 私みたいに投稿サイトへ気軽に載せるというより、雑誌の新人賞などにきちんと応募しているタイプだ。 将来は編集の仕事に就きたいらしい。 だから小説を書いていること自体は、別に隠すようなことではない。 問題は、何を書いているかだ。 「どこのコンテスト?」 「えっと……」 「小説投稿サイト?」 そう言いながら、早川君が私の後ろから画面を覗き込もうとした。 背が高い。 百八十センチはあると思う。 私が座っていると、余計に大きく見える。 ただし、格好いいかと言われると――。 伸ばしっぱなしの髪。 眼鏡。 少し伸びた無精ひげ。 細身というより、ひょろっとしている。 素材は悪くないと思う。 たぶん。 でも、本人にそれをどうにかしようという気がまったくない。 ……人のことは言えないけど。 「あっ」 早川君の視線が、机の上で止まった。 しまった。 三冊の官能小説。 慌てて隠そうとしたけれど、遅かった。 「これ……」 長い腕が伸びて、一冊持ち上げられる。 「ちょ、早川君!」 「え?」 表紙を見る。 私を見る。 もう一度、表紙を見る。 眼鏡の奥で目をぱちぱちさせた。 「綾瀬さん、こういうの読むんだ」 「違う!」 思わず大きな声が出た。 何人かがこちらを見る。 「……違うから」 今度は小声で言い直した。 早川君が本を机へ戻す。 「ごめん」 「いや、別に謝らなくてもいいんだけど……」 さて。 どう説明しよう。 読書が趣味です、と押し切るか。 無理だ。 三冊並べてパソコンを開き、メモまで取っている。 どう見ても研究中である。 「もしかして……」 早川君が声を落とした。 「官能小説、書いてるの?」 「…………」 ばれた。 私は観念して、コンテストのことを話した。 賞金が五十万円であること。 それにつられて応募を決めたこと。 そして、実際に書き始めてみたら思っていたよりずっと難しかったこと。 「そうなんだ」 笑われるかと思った。 けれど早川君は、意外なくらい普通に頷いた。 「綾瀬さん、前にも投稿サイトで賞を取ったことあるよね。今回もいけるんじゃない?」 「いや、今回は無理かも……」 「どうして?」 言いにくい。 ものすごく言いにくい。 私は机の上の三冊を見る。 早川君も見る。 もう、ここまで知られたのだ。 「……書けないの」 「何が?」 「だから……官能シーン」 言ってしまった。 早川君は笑わなかった。 「どこが難しいの?」 「どこって……」 少し考える。 どう説明すればいいのだろう。 「何をしているかは、本を読めば分かるの。だから、それっぽく書くこともできる。でも、そのとき紗栄子がどう感じてるのかが分からない」 「紗栄子?」 「あ、わたしの小説の主人公」 「なるほど」 早川君は少し考えてから、私の向かいの椅子を引いた。 「つまり、行動は書けるけど、気持ちが書けない?」 「うん。わたし……そういう経験がないから」 言ってから気づいた。 今、私は何を告白した? 「あ……」 顔が熱くなる。 これでは自分から「恋愛経験も、その先もありません」と宣言したようなものだ。 「いや、今のは――」 「あはは。僕もないよ」 「え?」 「そういう経験」 あっさり言った。 恥ずかしそうにするでもなく、本当にただ事実を伝えただけという顔をしている。 「……早川君って、そういうところすごいね」 「何が?」 「いや、何でもない」 少し悩んだ末、早川君が机の上の本を指で軽く叩いた。 「小説だけじゃなくて、映像も見てみたら?」 「それも考えたんだけど……」 「苦手?」 「そうじゃなくて、見る環境がないの。家にテレビもパソコンもないし、スマホだと通信量が気になるし」 「図書館は?」 「アクセスできなかった」 言ってから、しまったと思った。 早川君がこちらを見る。 「試したんだ」 「……試した」 「図書館で?」 「もう言わないで」 恥ずかしい。 「そっか……」 早川君は少し考え込んだ。 何となく嫌な予感がした。 この人は、たまに妙なところで行動力がある。 「だったらさ」 ほら来た。 「僕の部屋で見ればいいんじゃない?」 「…………」 今度は私が、早川君の顔を見た。 「早川君の部屋?」 「うん。ネットあるし、パソコンもあるから」 何を言っているのだろう、この人は。 男の子の部屋で。 二人きりで。 一緒にアダルトビデオを見る。 言葉にしてみると、かなりおかしい。 「……行っていいの?」 「え?」 早川君の方が驚いた。 「いや、綾瀬さんが嫌じゃなければ……」 そういう意味ではない。 普通、女の子を自分の部屋へ誘って、そんなものを一緒に見ようと言ったら、もう少し何かあるのではないだろうか。 警戒するとか。 断るとか。 たぶん、そういうやつ。 私は改めて早川君を見る。 伸びっぱなしの髪。 眼鏡。 無精ひげ。 そして、私以上に困った顔。 「…………」 でも、早川君だし。 「じゃあ、お願いしようかな」 「えっ、本当に?」 なぜ誘った本人が驚くのだろう。 私にも分からない。

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