むかいぬこ(@mukainuko) / 第88話

第3話 自己紹介

『はい、立花です』 「あ……」 切ろうと思っていたくせに、いざ相手が出ると何も言わずに切ることもできない。 「あの、私……先日、渋谷で声をかけていただいた者なんですけど」 『ああ! もしかして、ハチ公前にいた可愛いお嬢ちゃん?』 「たぶん……そうです」 自分で「そうです」と答えるのも妙な気がする。 『いやあ、連絡してくれたんですね。ありがとうございます』 「あの……バイトでもいいって言ってたので、お話だけでも聞いてみようかなと思って」 『なるほど、なるほど。ちょっと待ってね。電話代がかかっちゃうから、こっちからかけ直しますよ』 「え?」 返事をするより先に、電話が切れた。 「…………」 やっぱり変なオジサンだ。 そう思っているうちに、今度はスマホが鳴った。 画面には知らない番号。 たぶん立花だ。 一瞬迷ってから通話ボタンを押す。 「はい」 『もしもし、立花です。いやあ、ご連絡ありがとうございます』 さっきより声が明るい。 「はあ……」 『バイトに興味があるんですよね? でしたら、一度面接だけでも受けてみませんか?』 「面接ですか?」 『もちろん交通費はこちらで出します。五千円』 「五千円?」 思わず聞き返した。 交通費で五千円。 昨日確認した銀行残高は千八百円。 五千円あれば、一週間どころか給料日までかなり楽になる。 「本当に面接だけで五千円もらえるんですか?」 『もちろん。話を聞いて興味がなければ、そのまま帰っていただいて構いません。来ていただいた以上、交通費はどんなに近くても五千円お支払いします』 そんなうまい話があるのだろうか。 いや、ない。 昨日から散々怪しいと思っていた相手だ。 さすがに五千円に目がくらんで、そのまま「行きます」と答えるほど紗栄子も馬鹿ではない。 たぶん。 「その……どんな仕事なんですか?」 『えーとね……』 立花の声が少し低くなった。 『後で揉めるのも嫌だから、先に言っておきます』 「はい」 『アダルトビデオの撮影です』 「……やっぱり」 妙に納得してしまった。 芸能プロダクション。 やたら高い交通費。 そして、渋谷で若い女の子をスカウトしている社長。 全部が一本につながった気がする。 「じゃあ、結構です」 『待って待って。出演しなくてもいいんですよ』 「え?」 切ろうとした指が止まる。 『まずは見学だけでもいいんです。もちろん、交通費の五千円はお支払いします』 「……見学だけ?」 『はい。実際の撮影を見ていただいて、興味がなければそのまま帰っていただいて構いません』 紗栄子はスマホを耳に当てたまま黙り込んだ。 撮影を見るだけで、五千円。 怪しい。 ものすごく怪しい。 けれど、昨日の夜から何も食べず、昼も菓子パンで済ませたばかりだ。 頭の中で、ATMに表示された数字が蘇る。 千八百円。 それに五千円を足す。 六千八百円。 「……本当に、見学だけですよ?」 『もちろんです』 「絶対、変なことさせません?」 『させません、させません。嫌だったらすぐ帰っていただいて結構ですから』 「…………」 怪しい。 やっぱり怪しい。 それでも――五千円は大きい。 「……分かりました。見学だけなら」 その瞬間、紗栄子の中で五千円が警戒心に勝った。 * ここまで書いて、私はキーボードから手を離した。 「……五千円で釣られるって、ちょっと軽すぎるかな」 椅子の背もたれに身体を預け、大きく伸びをする。 ずっと同じ姿勢で書いていたせいで、肩が固まっていた。 もう一度、画面を見る。 工藤紗栄子。 大学二年生。地方出身。東京で一人暮らしをしていて、いつもお金がない。 ここまでは、だいたい私と同じだ。 ただし、決定的に違うところがある。 紗栄子は美人だ。 街を歩けばナンパされ、芸能事務所から声をかけられるくらいには美人で、自分でもそれをちゃんと分かっている。 対する私は――。 パソコンの黒い画面に、うっすら自分の顔が映っていた。 黒縁の眼鏡。 化粧っ気のない顔。 大学へ来るだけなので、服だって適当に選んだものだ。 「……地味だなあ」 知っていた。 別に今初めて気づいたわけではない。 だからこそ、小説の中くらいは美人になってみたかったのだ。 紗栄子には恋人もいたことがある。 私は、ない。 男の人と付き合ったこともなければ、当然、その先の経験もない。 そんな私が今、何を書いているのかというと――。 官能小説である。 自分でも、どうしてこうなったのかと思う。 大まかな筋書きは、もう考えてある。 紗栄子が怪しい芸能プロダクションと関わったことをきっかけに、それまで知らなかった世界へ足を踏み入れていく。 そこでいろいろな出来事に巻き込まれて――。 まあ、いろいろある。 問題は、その「いろいろ」を私がちゃんと書けるかどうかだ。 恋愛経験もない私が、どうして官能小説なんて書こうとしているのか。 理由は、とても単純だった。 お金である。 小説投稿サイトを眺めていたとき、たまたま官能小説のコンテストを見つけた。 最優秀賞の賞金――五十万円。 五十万円!! 大事なことなので二回言いたい。 私は今、奨学金と親からの援助だけでは足りない生活費を、ウェブライターの仕事で補っている。 ライターなんて言うと、ちょっと格好いい。 実際にやっているのは、ブログの記事を書いたり、動画の台本を作ったりする仕事がほとんどだ。 それでも、自分の書いた文章がお金になるのは嬉しい。 嬉しいのだけれど、何時間もかけて書いた記事の報酬を見ると、ちょっと悲しくなる。 時給換算は――考えたくない。 そんな私にとって、五十万円はものすごい大金だ。 もし本当に取れたら、しばらく生活費の心配をしなくていい。ウェブライターの仕事だって、少し減らせるかもしれない。 それに、自分の書いた小説が評価されたという実績にもなる。 賞金が欲しい。 それは間違いない。 でも、たぶん、それだけじゃない。 どうせ文章を書くなら、一度くらい本気で小説を書いて、誰かに認めてもらいたい。 そう思って、応募を決めた。 決めてから、気づいた。 官能小説って、どうやって書けばいいんだろう。 ネットで調べてみると、とにかく読者を刺激しろと書いてある。 恋愛だけでは弱い。 主人公を困らせろ。 恥ずかしい目に遭わせろ。 なるほど。 分からない。 調べれば調べるほど、自分には向いていないような気がしてきた。 そもそも私は、恋愛すらしたことがないのだ。 人を好きになったらどんな気持ちになるのか。好きな人には触れたいと思うものなのか、逆に触れられたら嬉しいのか。その先にあることも含めて、私には知らないことばかりだ。 それなのに、小説の中の紗栄子には、これから恋をさせて、その先まで経験させなければならない。 「……無謀だったかな」 呟いてから、画面の中の紗栄子を見る。 五千円につられて、怪しい撮影現場へ行こうとしている女の子。 少なくとも、この子よりは私の方が慎重だと思う。 たぶん。 でも、賞金五十万円につられて、書いたこともない官能小説を書こうとしている私が言えたことではないのかもしれない。 「似たようなものか……」 ちょっとだけ親近感が湧いた。 そういえば。 ここまで紗栄子の話ばかりしていて、肝心の私が誰なのか、まだ言っていなかった。 改めて自己紹介しておこう。 私は綾瀬花音《あやせかのん》。 東京の私立大学に通う、二年生。 小説家になりたい。 恋愛経験は、ゼロ。 そして現在――。 人生で初めて、官能小説を書いている。

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