むかいぬこ(@mukainuko) / 第90話

第5話 こんな気持ち

「うう~、緊張する……」 土曜日の朝。 私は吉祥寺へ向かう電車に揺られていた。 これから、早川君の部屋へ行く。 男の子の部屋へ遊びに行ったことなら、小学生の頃にある。何人かで集まってゲームをしただけだから、あれを数えていいのかは分からないけれど、とにかくそれ以来だ。 しかも今回は、一人暮らしをしている男の子の部屋へ、私一人で行く。 つまり、二人きり。 改めて考えると、なかなか大胆なことをしようとしている気がする。 「…………」 大丈夫だよね。 早川君だし。 別に危ないとは思っていない。 この前だって、私が「行っていいの?」と聞いたら、誘った本人の方が驚いていたくらいだ。 それでも、男の子の部屋へ遊びに行くとき、どう振る舞えばいいのかは分からない。 膝の上に置いたリュックへ、そっと手を添える。 中には、今朝作ったクッキーが入っていた。 早川君の部屋へお邪魔するのだから、何か持っていった方がいいと思ったのだ。 とはいえ、お店で買うとなると、それなりにお金がかかる。 だったら自分で作ればいい。 材料はなるべく安いものを選び、オーブンなんて洒落たものは持っていないので、フライパンで焼いた。 包装は百均。 我ながら、徹底している。 味見はした。 たぶん、大丈夫。 少なくとも、人に食べさせてはいけないものにはなっていない。 「早川君、甘いもの好きかな……」 作ってから気づいた。 聞いておけばよかった。 もし嫌いだったらどうしよう。 いや、嫌いなら私が食べればいい。 でも、それはそれで少し寂しい。 どうして寂しいのだろう。 「…………」 考えるのはやめた。 電車が吉祥寺へ近づくにつれて、胸の奥の落ち着かなさが少しずつ大きくなっていく。 駅へ滑り込むアナウンスが流れたので席を立ち、ドアの前へ移動した。 何気なく窓を見る。 そこに自分の姿が映っていた。 髪は、いつもより少しだけ丁寧に整えてある。服も普段なら大学へ行くときにはほとんど着ないブラウスに、久しぶりのスカートを選んだ。 別に、お洒落をしたつもりはない。 ……いや。 これは、お洒落をしたことになるのだろうか。 「わたし、なんでこんなに気合い入れてるんだろう」 窓の向こうの私も、当然答えてくれない。 「ばーか」 小さく口を動かしたところで電車がホームへ入り、窓に映っていた私は、ホームを行き交う人の姿に紛れて消えた。 明大前で井の頭線へ乗り換え、吉祥寺に着いたのは待ち合わせの十分前だった。 南口改札を抜け、人通りの邪魔にならないところで早川君を待つ。 休日の吉祥寺は朝から人が多く、待ち合わせをしている人も何組かいる。少し離れたところでは、同じくらいの年齢の男女が楽しそうに話していた。 あれは、たぶん恋人同士だ。 そこで、ふと思う。 男の子と女の子が、休日に二人で待ち合わせをしている。 これって――。 デート? いやいや。 ないない。 これから二人でアダルトビデオを見るのである。 そんなデートがあってたまるか。 「……でも」 少しだけ胸が落ち着かない。 待ち合わせの時間が近づくたびに、改札の方を見てしまう。 もしかしたら、デートで相手を待っている女の子も、こんな気持ちなのだろうか。 そう考えたところで、ふと気づいた。 「これ、使えるかも」 紗栄子だ。 今まで分からなかった女の子の気持ちを、私は今、少しだけ経験している。 もちろん、これはデートではない。 断じて違う。 でも、この落ち着かなさは覚えておこう。紗栄子を書くときに使えるかもしれない。 そうやって何でも小説の材料にしようとするあたり、私も少しは作家らしくなってきたのかもしれない。 たぶん。 しばらくして、公園の方から歩いてくる人たちの中に、頭一つ抜けた人影を見つけた。 早川君だ。 こういうとき、背が高い人は便利だ。 向こうは、まだ私に気づいていない。 人の間を縫うように歩きながら、こちらへ近づいてくる。 私は少し迷ってから、小さく手を振った。 気づくかな。 早川君の顔がこちらを向く。 一瞬だけ目を細め、それから私だと分かったのか、大きく手を上げた。 その瞬間、さっきまで胸の中にあった落ち着かなさが、ふっと軽くなった。 たった、それだけなのに。 「……なんだろう」 自分でもよく分からない。 でも、嫌な感じではなかった。 むしろ――。 「ごめん、待たせちゃった?」 早川君の声で、考えが途切れた。 「ううん。わたしが少し早く来ただけ。早川君は時間通りだよ」 「そっか、よかった」 そう言ってから、早川君が私を見る。 顔を見て、髪へ視線を移し、それから服へ。 視線が一度下がって、また戻ってきた。 「……なに?」 「あ、いや」 早川君が眼鏡の位置を直す。 「なんか、今日は感じが違うね」 「変……かな?」 急に不安になって、スカートの裾を少しつまむ。 やっぱり普段通りの服で来ればよかっただろうか。 「いや、そうじゃなくて」 早川君が慌てた。 「すごく良いと思います」 「…………」 なぜ敬語。 「ありがとう……」 自分でも分かるくらい、声が小さくなった。 褒められた。 ただそれだけなのに、なんだか顔が熱い。 「早川君の家、この近くなの?」 これ以上この話を続けるのが恥ずかしくなって、私は強引に話題を変えた。 「うん。歩いて十分くらいかな。こっち」 早川君が歩き出す。 私もその隣へ並んだ。 ……つもりだった。 数歩で遅れた。 早川君は百八十センチ以上ある。 対する私は小さい。 当然、歩幅も違う。 本人はゆっくり歩いているつもりなのだろうけれど、私は少し早足にならないと追いつけない。 「早川君、ちょっと速い」 「あ、ごめん」 すぐに歩調を緩めてくれた。 「これくらい?」 「うん」 今度は並んで歩ける。 ほんの少し歩く速さが変わっただけなのに、それが妙に嬉しかった。 今日は、さっきから変だ。 待っている間もそうだった。 見つけてもらったときも。 服を褒められたときも。 そして今も。 今までなら、こんなことはいちいち気にしなかったと思う。 これも、小説を書くために意識しているからなのだろうか。 だったら覚えておこう。 紗栄子を書くときに、きっと役に立つ。 そういうことにしておく。 十分ほど歩いたところで、早川君が足を止めた。 「ここだよ」 「……ここ?」 「うん」 目の前の建物を見上げる。 もう一度見る。 十階どころではなさそうなマンションだった。 入口には植え込みがきれいに整えられ、ガラス張りのエントランスの向こうには、ホテルみたいなロビーが見える。 少なくとも、私の住んでいるアパートとは同じ「集合住宅」という括りに入れてはいけない気がする。 「早川君、ここに住んでるの?」 「うん」 「一人で?」 「そうだけど」 そうだけど、ではない。 学生の一人暮らしと聞いて、勝手に自分と似たような部屋を想像していた。 「……家賃、いくら?」 「え?」 「いや、なんでもない」 聞くのが怖くなった。 早川君が入口へ近づくと、エントランスの自動ドアが静かに開いた。 「ついてきて」 「う、うん」 私はリュックの中のクッキーを思い出した。 材料費を抑えて、フライパンで焼いて、百均の袋に詰めたクッキー。 今朝までは、それなりによくできたと思っていたのに。 急に、ものすごく安っぽく思えてきた。

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