むかいぬこ(@mukainuko) / 第115話
第30話 エロゲーって?
時計を見ると、そろそろ講義へ向かわなければならない時間になっていた。
作業を始めてしまうと、どうしてこうも時間が過ぎるのが早いのだろう。
私は書きかけの記事を保存すると、パソコンを閉じた。
「向島先輩」
「なんだ」
相変わらず、こちらを見ない。
もう慣れてきた。
「わたし、これから講義があるんですけど、この部室って何時くらいまで開いてますか?」
「日によるが、七時くらいまでは誰かしらいる」
「じゃあ、講義が終わってから、また戻ってきてもいいですか?」
「もちろんだ。パソコンもそのままで構わん」
「ありがとうございます」
本当にありがたい。
図書館のパソコンが使えないと知ったときにはどうしようかと思ったけれど、これなら仕事もできるし、小説も書ける。
私は鞄を肩にかけ、もう一度頭を下げた。
「それじゃ、行ってきます」
「うむ」
「いってらっしゃい、花音先輩」
いつの間にか、流留君まで手を振っている。
「はいはい」
私も軽く手を振り返して、部室を出た。
なんだろう。
今日初めて会ったばかりなのに。
妙に馴染んでいる。
*
講義を終えて部室へ戻ると、窓から差し込む光がずいぶん傾いていた。
ドアを開ける。
「ただいま――」
「花音先輩、おかえりー!」
真っ先に反応したのは流留君だった。
「……元気だね」
「待ってたっすよ」
「なんで?」
「なんとなく」
なんとなく待たれていたらしい。
部屋には向島先輩と流留君、それから昼間にもいた部員がいる。
私は自分用に借りたパソコンの前に座った。
「さて、と」
昼間はライティングの仕事をした。
締め切りの近いものは片づけたので、ここからは自分の小説に使える。
クラウドから原稿を開く。
さて。
どこからだったっけ。
紗栄子が――。
「花音先輩」
「なに?」
横を見る。
流留君がいる。
「……近いよ」
「何してるんすか?」
「小説」
「小説?」
目が輝いた。
嫌な予感がする。
「花音先輩、小説書くんすか?」
「うん」
「すげー。見せてくださいよ」
やっぱり。
「やだ」
「なんでっすか」
「なんでも」
「いいじゃないっすか。ちょっとだけ」
「やだ」
私はパソコンを少し自分の方へ引き寄せた。
すると流留君まで、ずい、と近づいてくる。
「ちょっとだけ」
「ダメ」
「一ページ」
「ダメ」
「一行」
「何が分かるの、一行で」
「じゃあ全部」
「増えてるじゃない」
まったく。
人懐っこいというより、遠慮がない。
「見せられる小説ならあるけど」
「あるんすか?」
「前に書いたやつ」
私は今開いている原稿を閉じて、投稿サイトを開いた。
『潮騒の記憶』。
以前、私が書いた小説だ。
「これ」
「花音先輩が書いたんすか?」
「うん」
「読んでいい?」
「そのために見せたんだけど」
流留君は自分のパソコンでサイトを開くと、作品を探し始めた。
そして。
静かになった。
さっきまであれほど騒がしかったのに。
時々マウスを動かす音がするだけで、話しかけてこない。
私はその隙に自分の原稿へ戻った。
どれくらい経っただろう。
「……花音先輩」
「なに?」
「これ、すごくいいっす」
思っていたより真面目な声だった。
私は手を止めた。
「そう?」
「うん。俺、こういうのあんまり読まないんすけど……最後、すげー好きです」
「ありがとう」
素直に嬉しかった。
小説を褒められるのは、やっぱり嬉しい。
しかも、普段あまり小説を読まない人が最後まで読んでくれたのなら、なおさらだ。
「花音先輩、小説家になるんすか?」
「なれたらいいけどね」
「なれますって」
「簡単に言うなあ」
でも、悪い気はしなかった。
流留君はもう一度画面へ目をやり、それから私のパソコンを見る。
「あれ?」
「なに?」
「今書いてるの、これじゃないんすよね?」
しまった。
「さっき、別の画面だったじゃないっすか」
意外とよく見ている。
「……別の小説だよ」
「じゃあ、そっちも見せてくださいよ」
「それはダメ」
「なんで?」
「ダメなものはダメ」
「『潮騒の記憶』はいいのに?」
「これはいいの」
「なんで?」
しつこい。
「まだ途中だから」
「途中でもいいっすよ」
「よくない」
「俺、気にしないっす」
「わたしが気にするの」
それでも流留君は諦めない。
見せて。
嫌。
ちょっとだけ。
嫌。
タイトルだけ。
嫌。
ジャンルだけ。
「……恋愛小説?」
「まあ……」
「ミステリー?」
「違う」
「ファンタジー?」
「違う」
「ホラー?」
「違うって」
「じゃあ何なんすか?」
私は黙った。
流留君が首を傾げる。
別に、悪いことをしているわけではない。
誰にも言えないことでもない。
早川君は知っている。
千佳も知っている。
美鈴だって知っている。
それなのに、初対面に近い男の子へ自分から言うのは、どうにも抵抗がある。
「笑わない?」
「笑わないっす」
「絶対?」
「絶対」
私は周囲を確認してから、声を落とした。
「……官能小説」
「え?」
「だから、官能小説」
流留君が私を見る。
そして数秒。
「花音先輩が?」
「そうだけど」
「マジっすか?」
「だから見せたくなかったの!」
思ったより大きな声が出た。
向島先輩がこちらを向き――かけて、慌てて顔を逸らした。
「すんません。でも、意外すぎて」
「どうせ似合わないですよ」
「いや、そうじゃなくて」
流留君はなぜか嬉しそうだった。
「じゃあ、エロい小説ってことっすよね?」
「その言い方やめて」
「でも官能小説でしょ?」
「そうだけど……」
「じゃあ、やっぱエロくないとダメじゃないっすか」
痛いところを突かれた。
「……書いてるよ。一応」
「どれくらい?」
「どれくらいって?」
「ドエロ?」
「ド……」
なんという言葉を使うんだ、この子は。
「普通です!」
「官能小説で普通じゃダメでしょ」
「なんで流留君にそんなこと言われなきゃいけないの」
「だって、読む方はそれを期待して読むじゃないっすか」
私は言い返そうとして――止まった。
読む方。
これまで早川君とは、何度も小説について話してきた。
登場人物の気持ち。
場面のつながり。
物語として不自然ではないか。
紗栄子がどう考えて、どう動くのか。
早川君はいつも、私が作った物語の中へ入って、一緒に考えてくれた。
でも。
目の前の年下の男の子が言っているのは、まるで違う。
「読む方は、それを期待する……」
「そうっすよ」
流留君はあっさり頷いた。
「官能小説なんだから、読んだ人が『うわ、エロっ』ってならなきゃダメなんじゃないっすか?」
「そんな単純なもの?」
「少なくとも俺なら、そういうの期待して読むけど」
「……流留君、官能小説読むの?」
「小説はあんまり。でもエロゲーなら」
「エロゲー?」
知らない言葉だった。
「何、それ」
流留君が固まった。
向島先輩の手も止まった。
もう一人の部員までこちらを見る。
「……花音先輩」
「なに?」
「エロゲー、知らないんすか?」
「知らない」
なぜか。
部室の空気が変わった。
「官能小説書いてるのに?」
「関係あるの?」
「ありますって!」
流留君が勢いよく自分のパソコンを引き寄せた。
「ちょっと待ってください。今、見せますから」
「何を?」
「エロゲーっすよ」
「だから、それ何なの?」
「見れば分かります」
流留君が何やら操作を始める。
その様子を見ながら、私は少しだけ後悔していた。
官能小説を書いているなんて。
やっぱり言わなければよかったかもしれない。