むかいぬこ(@mukainuko) / 第114話
第29話 年下の男の子
翌日の昼休み。
私は美鈴に連れられて、サークル部室棟へ向かっていた。
大学の敷地内には何度も足を運んでいるのに、この建物に入ることはほとんどない。
私たちの文藝サークルも、昔はここに部室があったらしい。
けれど活動実績が乏しいとか、利用頻度が低いとか、そんな理由で追い出され、今では決まった部室を持たない野良サークルと化している。
その点、これから向かう電研――電脳研究会は、ちゃんと部室を持っている。
「ねえ、ミリン」
「ん?」
「部員でもないわたしが、本当にパソコンを借りても大丈夫なの?」
昨日はパソコンを使わせてもらえると聞いて、後先考えずに飛びついてしまったけれど、本当に大丈夫なのだろうか。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと話は通してるから。それに……」
「まあ、変な人はいるけど、悪い人はいないから」
「う、うん」
「部長は高校の先輩なんだ」
美鈴が軽い調子で答える。
「向島巌《むこうじまいわお》っていうんだけど、すっごく真面目な人だよ」
「へえ~」
「女の人の顔、まともに見られないけど」
美鈴が笑った。
階段へ向かって歩いていると、美鈴が「あ、そうだ」と何かを思い出した。
「カノン、金曜日の親睦会、来るよね?」
足が一瞬だけ止まりそうになった。
「……親睦会?」
「ほら、この前、店の下見したじゃん」
「ああ」
そうだった。
美鈴と。
早川君と。
三人で行った、あの店。
「今度の金曜に決まったから。七時から」
「そっか」
できるだけ普通に答えた。
「人数も結構集まったよ。珍しく」
「うん」
「早川も来るし」
分かっていた。
文藝サークルの親睦会なのだから、早川君が来ても何もおかしくない。
それなのに、名前を聞いただけで胸の奥が少しざわついた。
昨日。
私は自分から、互助関係を終わりにした。
これからは自分で書いてみたい。
そう言って。
早川君も、「分かった」と答えた。
それだけなら、まだよかった。
問題は、その前の夜だ。
私は、自分が早川君を好きなのだと気づいてしまった。
知らなかったころなら、同じサークルの友達として普通に会えた。
たぶん。
でも、今は。
「カノン?」
「え?」
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
危ない。
「金曜日ね。分かった」
「オッケー。あとで掲示板にも流しとく」
美鈴は何も気づかなかったようで、そのまま階段を上っていく。
私は小さく息を吐いて、その後を追った。
金曜日。
あと三日。
別に、二人きりになるわけじゃない。
みんないる。
だから大丈夫。
……たぶん。
*
電研の部室は、四階の廊下の奥にあった。
美鈴がドアを二回ノックする。
「ちーす」
返事を待たずに開けた。
「あ、ミリン」
私も慌てて後に続き――。
「うっ」
思わず声が出た。
狭い。
六畳くらいだろうか。
中央に大きな座卓が置かれ、その上にはノートパソコンやらケーブルやら、用途の分からない小さな機械やらが散らばっている。
壁際には棚。
その棚にも箱、箱、箱。
何かのキャラクターらしい人形も並んでいる。
そして、男の人が二人。
一人はパソコンに向かっていて、もう一人は床に座って何かの機械を分解している。
なんというか。
男の人の部屋に入るのとは、また違う緊張感がある。
「先輩、連れてきたよ」
美鈴が声をかける。
床に座っていた大柄な男の人が立ち上がった。
「うむ」
けれど。
こちらを見ない。
なぜか壁を見ている。
「昨日話したカノン。この人が向島巌先輩。私の高校の先輩で、電研の部長」
「は、初めまして。綾瀬花音です」
頭を下げる。
「初めまして。電脳研究会部長、向島巌だ」
向島先輩も答える。
壁を見たまま。
「…………」
「…………」
何だろう、この会話。
私は美鈴の袖を引っ張った。
「ねえ」
「なに?」
「あの人、なんでこっち見ないの?」
声を潜めたつもりだった。
「聞こえているぞ」
向島先輩から返事がきた。
「あっ、すみません!」
「気にするな。俺の問題だ」
やっぱり壁を見ている。
美鈴が平然と説明する。
「先輩、女の人と目を合わせて話せないの」
「蜂矢。余計な説明は要らん」
「だってカノンが不安になるじゃん」
「…………」
向島先輩は反論しなかった。
どうやら本当らしい。
「話は蜂矢から聞いている。図書館のパソコンが使えず、困っているそうだな」
「あ、はい」
「余っているものがある。好きに使ってくれて構わない」
「本当ですか?」
「ただし、持ち出しは不可だ。ここで使ってもらう」
「もちろんです。ありがとうございます」
ありがたい。
昨日まで途方に暮れていたのが嘘のようだ。
「それから、部室には基本的に誰かいる。空いていればいつ来ても構わん」
「はい」
「そこの彼に設定を頼んである」
向島先輩が壁を向いたまま、片手でパソコンに向かっている部員を示す。
「お願いします」
私が頭を下げると、その人も軽く頭を下げた。
棚から一台のノートパソコンを持ってきて、電源を入れてくれる。
すでに私用のアカウントまで作ってくれていた。
「すごい……」
昨日頼んだばかりなのに。
「先輩、こういうところだけは仕事早いから」
「こういうところだけ、は余計だ」
「褒めてるんだって」
「そうは聞こえん」
この二人、本当に先輩と後輩なのだろうか。
「あとは大丈夫そう?」
美鈴が聞く。
「うん。これなら使えると思う」
「じゃ、私、次の講義あるから行くね」
「え?」
思わず美鈴を見る。
「行っちゃうの?」
「だって講義あるし」
「それはそうだけど……」
男の人しかいない部屋に、一人で残される。
早川君の部屋には毎週のように通っていたくせに、知らない男の人ばかりとなると話は別だ。
「大丈夫だって」
美鈴が笑う。
そして部室を出る直前、振り返った。
「先輩」
「なんだ」
「カノンに変なことしたら――」
「せん!」
向島先輩が食い気味に答えた。
「お前の友人に手を出すほど命知らずではない」
「よろしい」
何者なんだ、美鈴。
「じゃあね、カノン」
「う、うん。ありがとう」
ドアが閉まった。
急に部屋が静かになる。
「…………」
どうしよう。
少し心細い。
とりあえず、パソコンを使わせてもらうのだから、作業をしよう。
ブラウザーを開き、自分のクラウド領域へ入る。
ちゃんと使える。
これならライティングの仕事もできるし、小説も書ける。
よかった。
本当によかった。
「では、俺も講義がある」
「え?」
向島先輩まで?
「何か分からないことがあれば、彼に聞いてくれ」
「は、はい」
向島先輩が部室を出ていく。
残った部員は、さっきから黙々とパソコンに向かっている。
私は知らない男の人と二人きりになった。
「…………」
向こうも喋らない。
私も喋らない。
これはこれでいいかもしれない。
しばらく作業をしていると、部室のドアが勢いよく開いた。
「お疲れさまでーす」
明るい声と一緒に、一人の男の子が入ってきた。
茶色っぽい髪。
少し無造作で、大学生というより高校生にも見える。
「あれ?」
その子が私を見る。
「女の人がいる」
第一声がそれだった。
「こんにちは」
とりあえず挨拶する。
「こんにちは。え、新入部員っすか?」
「違います。ちょっとパソコンを借りてて」
「ああ、そうなんすね」
男の子は納得したように頷くと、持っていた鞄を床へ置いた。
そして。
私の向かいではなく、なぜか隣に座った。
近い。
「俺、経済学部一年の堂本流留《どうもとながる》です」
「どうもと……?」
「流留。流れるに、留まるって書いてナガル」
「珍しい名前だね」
「よく言われます。先輩は?」
「文学部二年の綾瀬花音」
「じゃあ、花音先輩っすね」
いきなり名前。
「えっと……堂本君」
「流留でいいっすよ。俺、後輩なんで」
「でも、いきなり呼び捨ては……」
「じゃ、流留君で」
「自分で決めるの?」
「はい」
なんだ、この子。
調子がいい。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
「あ、花音先輩って何してるんすか?」
「ちょっと仕事」
「仕事? 大学生なのに?」
「ライティングの仕事。Webの記事を書いたりしてるの」
「へえー、すごいっすね」
流留君が画面を覗こうとする。
また近い。
普通なら、男の人がこんな距離まで来たら身構えると思う。
少なくとも、少し前の私ならそうだった。
なのに。
「近いよ」
「あ、すんません」
それだけだった。
嫌でもない。
怖くもない。
ドキドキもしない。
流留君は素直に少し離れると、今度は私のパソコンを指差した。
「それ、部長が用意したんすか?」
「うん」
「珍しい。部長、女の人と喋れないのに」
「やっぱりそうなんだ」
「あの人、二次元なら平気なんすけどね」
二次元なら平気。
どういうことだ。
「あ、そうだ」
流留君が何かに気づいた。
「花音先輩って、もしかして蜂矢先輩の友達?」
「うん。ミリンに紹介してもらったの」
その瞬間。
流留君の姿勢が正された。
「マジっすか」
「うん」
「……気をつけよ」
「何を?」
「いや、こっちの話っす」
このサークルで、美鈴はいったい何をしたのだろう。
聞きたい。
でも、少し怖い。
「花音先輩、喉渇いてないっすか?」
突然、流留君が立ち上がった。
「え?」
「俺、自販機行くんで。何か買ってきますよ」
「じゃあ、お茶を――」
財布を出そうとすると、手で制された。
「いいっすよ、そのくらい」
「でも」
「先輩なんだから奢らせてください」
「普通、逆じゃない?」
「あれ?」
本人も気づいていなかったらしい。
「じゃあ、先輩が奢ってくれます?」
「なんでそうなるの」
「冗談っす」
笑いながら、流留君が部室を飛び出していく。
騒がしい。
本当に、騒がしい。
でも。
私は少し笑っていた。
男の人と話している、という感じがあまりしない。
早川君とは違う。
人懐っこくて、距離が近くて、落ち着きがなくて。
でも、なぜか警戒しなくていい。
もし私に弟がいたら――。
こんな感じなのかな。