むかいぬこ(@mukainuko) / 第113話
第28話 ありがとう
「カノン」
「なに?」
「大学の講義って、部外者が勝手に受けてもいいの?」
「…………」
考えたこともなかった。
「ダメなんじゃない?」
「帰る」
「待って待って!」
講義室の入口で踵を返そうとする千佳の腕を掴んだ。
せっかく鹿児島から来たのだ。
それに、二限目が終われば、そのまま東京駅まで見送りに行くことになっている。
一時間半くらい、何食わぬ顔で座っていればいい。
たぶん。
「大丈夫だよ。こんなに学生いるんだし、一人くらい増えても分かんないって」
「さっきと言ってること違わない?」
「気にしない」
「軍曹、悪い顔になったね」
誰のせいだ。
千佳を連れて講義室に入ると、まだ授業開始まで少し時間があるせいか、学生たちがあちこちで固まって話をしていた。
「カノン、おはよ」
「あ、ミリン。おはよう」
先に来ていた美鈴が、いつもの席から手を振った。
「その子は?」
美鈴の視線が、私の隣にいる千佳へ向く。
そういえば、二人を会わせるのは初めてだ。
「紹介するね。村松千佳。鹿児島にいたころからの友達で、昨日こっちに遊びに来たの」
「村松千佳です。今日は勝手についてきちゃって、ごめんなさい」
「全然いいって。蜂矢美鈴です。花音とは同じサークルなの」
「いつもカノンがお世話になってます」
「何その保護者みたいな挨拶」
「だってカノン、昔から危なっかしいし」
「千佳に言われたくない」
方向音痴で、ついさっきまで大学の中でも私について歩いていた人にだけは言われたくない。
美鈴が笑いながら、千佳をあらためて見る。
「それにしても、千佳ちゃんって可愛いね」
「え?」
「すごい。アイドルみたい」
「またそれ?」
千佳が困ったように私を見る。
「私、全然モテないんだけど」
「嘘でしょ?」
美鈴が本気で驚いている。
私も、美鈴の反応の方が正しいと思う。
もっとも、千佳がモテない理由は顔ではない。
ついさっき、その原因を早川君の前で実演してくれたばかりだ。
「でも、美鈴ちゃんも綺麗だね。背も高いし」
「ありがと」
「スタイルも――」
そこで千佳の視線が、すっと下がった。
美鈴の胸元で止まる。
「…………」
「どうしたの?」
「なんでもない」
千佳は笑った。
笑っているけれど、ほんの少しだけ目が死んでいる。
何を考えているのか、私には分かった。
たぶん、あれだ。
ヒンヌー教。
私は何も言わなかった。
触らぬ神に祟りなし。
ヒンヌー教だけに。
「あ、おはよ~」
そこへ、ふわっとした声が割り込んだ。
遥ちゃんだった。
少し急いできたらしく、片手で髪を整えながら私たちのところへやってくる。
「花音ちゃん、美鈴ちゃん、おはよ~。あれ? 今日は知らない子がいる」
「おはよう、遥ちゃん。紹介するね。地元の友達の千佳。鹿児島から遊びに来てるの」
「村松千佳です」
「永井遥です。よろしくね~」
遥ちゃんは、いつもの柔らかい笑顔を浮かべた。
そして千佳を見た途端、目を丸くする。
「わあ~、可愛い~」
「え?」
まただ。
「千佳ちゃん、本当に可愛いね。芸能人みたい」
「そんなことないよ」
「あるよ~。ね、美鈴ちゃん」
「でしょ? ワタシも今言ってたところ」
「二人とも大げさだよ」
千佳が照れくさそうに笑う。
そして。
「遥ちゃんも可愛いね。それに、その服――」
視線が下がった。
また止まった。
「…………」
今度はさっきより長い。
遥ちゃんは肩口にフリルのついたワンピースを着ていて、華奢なのに出るところはきちんと出ている。
千佳が自分の胸元を見る。
美鈴を見る。
遥ちゃんを見る。
もう一度、自分を見る。
「千佳?」
「……神はいない」
「いきなりどうしたの?」
「なんでもない」
いた。
ヒンヌー教徒がいた。
しかも信仰心が、さっきより深くなっている。
私はそっとしておくことにした。
「でも千佳ちゃん、鹿児島からって遠かったでしょ~?」
「うん。新幹線を乗り継いで来たの。同じ日本国内とは思えないくらい遠い」
「あはは。東京はどう?」
「人が多すぎ。今朝の電車なんて大変だったよ」
「あ~、分かる~」
「あと、みんな歩くの速い」
「それも分かる!」
あっという間に話が弾み始める。
美鈴もそこへ加わって、いつの間にか三人で東京と鹿児島の話をしていた。
昨日まで千佳と一緒になって、勝手に美鈴を早川君の好きな人だと決めつけていたことを思うと、なんだか申し訳なくなった。
本人は何も知らないのだけれど。
やがて先生が入ってきて、教室が静かになった。
*
九十分後。
「大学って、どこもこんな感じなんだね」
講義室を出るなり、千佳が言った。
「何が?」
「眠い」
「そこ?」
「途中から何言ってるのか全然分からなかった」
「私の大学の講義なんだから当たり前でしょ」
「カノンは分かった?」
「…………」
「目を逸らすな、軍曹」
隣で美鈴が笑っている。
この二人、たった九十分ですっかり仲良くなってしまった。
「じゃ、私は次の講義あるから」
「うん。またね、ミリン」
「千佳ちゃんも。また東京来たら遊ぼうね」
「うん」
美鈴が行きかけて、
「あ、そうだ。カノン」
振り返った。
「なに?」
「カノンって、図書館のパソコン使ってたよね?」
「使ってるよ」
早川君の部屋へ行かないなら、これからはまた図書館のパソコンを使うことになる。
「しばらく使えなくなるみたいよ」
「…………え?」
「図書館の?」
「うん。パソコン置いてあるところ。機器の入れ替えと工事だって。さっき掲示出てた」
「いつから?」
「明日だったかな」
「いつまで?」
「二週間くらい、だったかな」
「どうしよう?」
「どうする?」
千佳まで言った。
どうする?
どうするって。
私は昨日まで、早川君の部屋でパソコンを借りていた。
ついさっき。
ほんの九十分ほど前。
私はその早川君に、
『互助関係、そろそろ終わりにしよう』
と言った。
これからは自分で書いてみたい。
そう言った。
そして、私の家には――。
パソコンがない。
「…………」
やらかした。
完全にやらかした。
どうしよう。
早川君に、
『ごめん。やっぱりパソコン貸して』
なんて言えるわけがない。
あれだけ格好をつけて「ありがとう」まで言っておいて、一時間半後に撤回?
無理。
絶対に無理。
でも、パソコンがなければ小説が書けない。
スマートフォンでも下書きくらいはできるけれど、長い文章の推敲や清書は厳しい。
しかもコンテストの締め切りは待ってくれない。
「終わった……」
「何が?」
「わたしの官能小説」
「そこまで?」
千佳が呆れた。
「大学のパソコン、他にもあるでしょ?」
「あるけど、自由に長時間使えるところって限られてるし……」
「じゃあ、ネットカフェとか」
「お金がかかる」
「買う」
「もっとお金がかかる!」
五十万円を手に入れるための小説を書くために、パソコンを買ってお金がなくなる。
本末転倒にもほどがある。
「何? パソコン使いたいの?」
まだ近くにいた美鈴が戻ってきた。
「うん。できれば自由に使えて、お金がかからないところ」
「そんな都合のいいところ――」
千佳が言いかける。
「あ、あるよ」
美鈴があっさり答えた。
「あるの!?」
「うん」
救世主。
今、美鈴の後ろに光が見えた気がする。
「どこ?」
「電研」
「……でんけん?」
「電脳研究会」
聞いたことがない。
「何するサークル?」
「さあ?」
「知らないの?」
「パソコンいじったり、ゲームしたり、動画作ったりしてるんじゃない?」
「疑問形ばっかりなんだけど」
「ワタシもよく分かんないのよ」
大丈夫なのだろうか。
「でもパソコンはいっぱいあるよ。部室に何台も置いてあるし、空いてれば自由に使わせてもらえると思う」
「本当に?」
「知り合いいるから、聞いてあげようか?」
「お願い!」
即答した。
今はオタサーだろうが何だろうが構わない。
パソコンが使えるなら神様だ。
「今日行く?」
「今日は……」
千佳を見る。
「東京駅まで送っていく約束してるから」
「ああ、そっか」
「明日でもいい?」
「いいよ。じゃあ話しとく」
「ありがとう、ミリン!」
美鈴が手を振って、今度こそ次の講義へ向かっていった。
その背中を見送りながら、千佳がぽつりと言う。
「ねえ、カノン」
「なに?」
「官能小説書くためにオタサーへ行くんだね」
「言い方!」
ものすごく間違った道へ進み始めた気がする。
*
東京駅は、相変わらず人が多かった。
新幹線の改札前にも、大きなキャリーケースを引いた人や、お土産の袋を抱えた人が行き交っている。
「じゃあ、ここでいいよ」
千佳が立ち止まった。
「ホームまで行こうか?」
「大丈夫。子供じゃないんだから」
「迷子になりかけた人が?」
「それとこれとは別」
何が別なのか分からない。
千佳は今日の夜には鹿児島へ帰る。
昨日、アパートの前でうずくまっていた姿を見たときは驚いた。
どうしてここにいるの。
そう思った。
たった一日しか経っていないのに、ずいぶん長い時間一緒にいたような気がする。
「東京、どうだった?」
「人が多い」
「それだけ?」
「電車が怖い」
「他には?」
「カノンの大学、女の子はいい人が多い」
「女の子は?」
「男は怖い」
やっぱり、そこか。
「でも、早川君とは喋れたじゃん」
「……あれは頑張ったの」
千佳が少しだけ頬を膨らませた。
「すっごく頑張ったんだからね」
「うん」
それは分かっている。
早川君の顔もまともに見られないくせに。
言葉につまりながら。
それでも、私のために言おうとしてくれた。
「ねえ、千佳」
「ん?」
「昨日、来てくれてよかった」
「なに、急に」
「だって、びっくりしたから。アパートの前にいるんだもん」
「連絡つかないカノンが悪い」
「それは……ごめん」
「本当に心配したんだからね」
「うん」
「オトコの部屋に泊まったなんて聞かされるし」
「何もなかったって」
「知ってる」
千佳が笑った。
それから少しだけ真面目な顔になる。
「でも、よかった」
「何が?」
「カノンがちゃんと恋してて」
「…………」
「前に電話で話してたころと全然違うもん」
「そうかな」
「そうだよ」
千佳は少し考えてから続けた。
「前は早川君のこと話してても、なんか他人事みたいだった」
「他人事って」
「好きなのか、好きじゃないのか、自分でも分かってなかったでしょ」
それはそうだ。
私はずっと、分かっていなかった。
一緒にいると楽しい。
会いたい。
他の女の子といると気になる。
それだけ揃っていても、まだ気づかなかった。
「今は?」
「顔に書いてある」
「嘘!」
思わず両手で頬を隠した。
「好きですって?」
「うん。でっかく」
「最悪」
「大丈夫。早川君の前では書いてなかったから」
「なんで分かるのよ」
「なんとなく」
千佳が笑う。
私も笑った。
「でもさ」
千佳が言った。
「本当によかったの? 互助関係やめちゃって」
「…………」
痛いところを突く。
「分かんない」
正直に答えた。
「今でも、やめたくなかったって思ってる」
「うん」
「でも、あのまま続けるのも無理だったと思う」
好きだと知らなければ続けられた。
知ってしまったら、もう同じではいられない。
「だから、これでいいの」
言い切ってみた。
自分に言い聞かせるように。
千佳は何も言わなかった。
それがありがたかった。
正しかったとも、間違っていたとも言わない。
ただ隣にいてくれる。
「新幹線、何時だっけ?」
「あ、そろそろ行かないと」
千佳がスマートフォンで時間を確認する。
「お土産買った?」
「買った。東京ばな奈」
「定番だね」
「お母さんが好きなの」
改札へ向かって歩き出す。
数歩進んだところで、千佳が振り返った。
「じゃあね、カノン」
「うん。気をつけて」
「何かあったら連絡してよ」
「分かった」
「今度はちゃんと返事すること」
「はい」
「あと、早川君の好きな人が分かったら――」
「それは報告しない」
「なんでよ!」
最後までそれか。
笑いながら手を振る。
千佳も手を振り返した。
そして改札へ向かおうとする。
「千佳!」
呼び止めた。
「なに?」
言っておきたかった。
鹿児島から、わざわざ来てくれたこと。
心配して、アパートの前で待っていてくれたこと。
男の人が苦手なくせに、早川君に一生懸命話してくれたこと。
私が自分の気持ちから逃げそうになったとき、隣にいてくれたこと。
たった一言では、全然足りない。
それでも。
「ありがとう」
千佳は一瞬だけ目を丸くした。
それから、いつもの顔で笑った。
「どういたしまして、軍曹」
今度こそ、千佳は改札の向こうへ歩いていった。
私はその姿が見えなくなるまで、そこに立っていた。