むかいぬこ(@mukainuko) / 第108話

第23話 朝帰り

シャワーを浴びながら、紗栄子はさっきまでのことを思い返していた。 撮影が始まる前は、どうなることかと思っていた。 知らない人たちに囲まれ、カメラを向けられ、何をすればいいのかも分からない。途中で逃げ出したくなるかもしれないと、本気で思っていた。 それなのに、始まってしまえば不思議と怖くなかった。 海がいたからだ。 ――俺だけ見てればいい。 言われた通り、海だけを見ていた。 その言葉も。 好きだと言ったことも。 全部、演技だった。 思い出したら、また腹が立ってきた。 「何よ……」 シャワーの音に紛れて呟く。 あんな言い方をされたら、本気にするに決まっている。 少なくとも紗栄子は本気にした。 そして、本気にした自分がものすごく恥ずかしい。 それなのに。 最後に頭を撫でられたことを思い出すと、今度は胸の奥が落ち着かなくなる。 ――初めてなのに、よく頑張ったな。 あれも演技だったのだろうか。 いや、撮影はもう終わっていた。 だったら、あれは海自身の言葉だったのかもしれない。 「……連絡先、聞けばよかった」 今さら気づいた。 また会えるかと聞いたくせに、肝心の連絡先を知らない。 海は「さあな」と言って帰ってしまった。 次に会える保証なんて、どこにもないのだ。 紗栄子はシャワーを止めた。 急に静かになった浴室で、さっきより大きなため息が出た。 * 着替えを済ませ、ドライヤーで髪を乾かしていると、部屋の内線が鳴った。 『紗栄子ちゃん、もう大丈夫?』 杏果だった。 「はい。今、終わったところです」 『じゃあ、そっち行くね。ちゃんと服は着てる?』 「着てますよ!」 『ならよし』 電話の向こうで笑っている。 しばらくするとノックの音がして、杏果と立花が入ってきた。 「いやあ、紗栄子ちゃん、お疲れさま!」 相変わらず立花は軽い。 「初めてとは思えなかったよ。いやあ、僕の目に狂いは――」 「社長」 「はい」 杏果に睨まれ、立花が口を閉じた。 この人、社長なのに弱い。 「はい、これ。今日のギャラね」 茶色い封筒を渡された。 「ありがとうございます」 受け取る。 思ったより厚い。 気になって中を覗き、紗栄子は目を疑った。 一、二、三――。 数える。 もう一度数える。 「……二十五万?」 「そう」 「えっ、でも」 聞いていた金額より多い。 「こんなにもらっていいんですか?」 杏果が立花を見る。 立花が頷いた。 「本当は二十万だったんだけどね。海野君が、自分のギャラを減らして、その分を紗栄子ちゃんに回してくれって」 「海が?」 思わず聞き返した。 「うん。五万円」 「五万円も?」 「男優さんのギャラは十万円くらいだから、半分ね」 紗栄子は封筒を見る。 五万円。 海が自分の取り分を減らして、私に。 そんな話は一言もしていなかった。 むしろ最後まで、いつものぶっきらぼうな海だった。 ――さあな。 そう言って帰っていった。 「なんで……?」 「初めてだったからじゃない?」 杏果が笑う。 「紗栄子ちゃんのこと、気に入ったのかもね」 胸が跳ねた。 「気に入った?」 「そうかも、って話」 「でも、好きって言ったのは演技だって」 「あら。そんなこと言われたの?」 「言われました」 しかも「おまえ馬鹿?」みたいな顔までされた。 思い出したら、また腹が立つ。 「海くんらしい」 杏果はおかしそうに笑った。 「何がおかしいんですか」 「ごめん、ごめん」 全然反省していない。 紗栄子はもう一度、封筒を見る。 五万円。 その数字だけで海の気持ちが分かるわけではない。 好きだからなのかもしれない。 初めての撮影だったから気を遣っただけかもしれない。 単なるお人好しかもしれない。 本人がいないのだから、確かめようもない。 それでも。 「……やっぱり、連絡先聞けばよかった」 「ん?」 「なんでもないです」 封筒を鞄にしまった。 嫌な奴。 口も悪い。 人のことを馬鹿呼ばわりする。 なのに、知らないところでこんなことをする。 海という男が、ますます分からなくなった。 そして、分からなくなったぶんだけ。 もう一度、会ってみたくなった。 * 土曜日。 吉祥寺駅を出た私は、いつもの道を歩いていた。 昨夜のことが、ずっと頭から離れない。 美鈴と早川君を見送ってから、私は一人で帰った。 家に着いてからも少し気になったけれど、早川君へメッセージを送ることはしなかった。 無事に送れた? 美鈴、大丈夫だった? 何度かスマートフォンを手に取った。 でも、やめた。 私が頼んだのだ。 ――ミリン、送ってあげてくれる? 早川君は「分かった」と言った。 だったら、あとは二人のことだ。 私が気にする必要はない。 そう思って、昨夜は紗栄子の続きを書いた。 海のことを嫌な奴だと思っていた紗栄子が、撮影をきっかけに少しずつ印象を変えていく。 自分の知らないところで、海が報酬を譲ってくれていたことを知る。 それでも海が何を考えているのかは分からない。 だから、もう一度会いたいと思う。 そこまで書いて、私は手を止めた。 《もう一度、会ってみたくなった。》 画面には、そう書いてある。 会いたい。 その理由まで書いた方がいいのだろうか。 海が気になるから。 もっと知りたいから。 それとも――。 電車が揺れた。 私はスマートフォンから顔を上げる。 危ない。 乗り過ごすところだった。 慌てて画面を閉じた。 今考えることではない。 今日は早川君に読んでもらえばいい。 たぶん、私一人で考えるより、その方が早い。 駅から早川君のアパートまでは、もう迷わなくなった。 最初に来たときは地図を何度も確認したのに、今では角をいくつ曲がれば着くのかまで覚えている。 慣れたものだ。 ……慣れてしまった、と言った方がいいのかもしれない。 土曜日にここへ来ることが、いつの間にか私の中で当たり前になっていた。 アパートが見えてきた。 私は少しだけ足を速める。 昨日も会ったのに。 たった一晩しか経っていないのに。 自分でもよく分からない。 ただ今日は、早く原稿を読んでもらいたかった。 階段を上がり、いつもの部屋の前に立つ。 インターホンを押した。 ――。 返事がない。 もう一度押す。 やっぱり、何も聞こえない。 「……あれ?」 時間を間違えた? スマートフォンを確認する。 十時。 いつもと同じだ。 メッセージも来ていない。 寝ているのだろうか。 昨日は美鈴を送っていったのだから、帰りが遅くなったのかもしれない。 三度目のインターホンに指を伸ばして、止めた。 昨日。 美鈴を送っていった。 そこから先のことを、私は知らない。 どこまで送ったのだろう。 駅まで? 家まで? 美鈴はかなり酔っていた。 一人にはできなかったはずだ。 だったら――。 「何考えてるんだろ、私」 小さく呟いた。 別にいい。 早川君がどこにいようと、私には関係ない。 友達の美鈴を送っていっただけだ。 それに、もし二人が――。 そこで考えるのをやめた。 帰ろうかな。 そう思ったとき。 階段を駆け上がってくる足音がした。 振り向く。 「綾瀬さん!」 「……早川君?」 息を切らした早川君が、階段の途中に立っていた。 「ごめん。待った?」 「ううん、今来たところだけど……」 そこで気づいた。 昨日と同じシャツ。 昨日と同じパンツ。 少し乱れた髪。 早川君は、昨日の服のままだった。

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