むかいぬこ(@mukainuko) / 第107話

第22話 イヤな奴は意外とイイ奴だった

「次は衣装ね」 杏果さんが、ハンガーに掛けられた服を何着か取り出した。 その横には、下着まで用意されている。 しかも赤い。 赤というだけでも十分目立つのに、私が普段使っているものとは、どう考えても用途が違いそうだった。 「……これ、着るんですか?」 「そうよ」 「こっちじゃ駄目ですか?」 私が自分の下着を指すと、杏果さんは首を振った。 「撮影では、服を脱ぐところも大事なの。普通の下着より、ちょっと派手なくらいの方が映えるから」 「へえ……」 知らなかった。 アダルトビデオというものは、裸になってからが本番なのだと思っていた。 考えてみれば、私は今までそういうものを真面目に研究したことがない。今日の撮影にしたって、本来は杏果さんの代役で、ついさっきまで見学するだけのつもりだったのだ。 人生というものは、数時間先さえ分からない。 朝の私に「今日、赤い下着を着て撮影するよ」と教えてあげても、絶対に信じなかっただろう。 「はい。次はこれ」 渡されたのは、タンクトップとキュロットスカートだった。 「服は普通なんですね」 「どうせすぐ脱ぐから」 「あ、そういうことですか」 納得していいのか分からない。 着替えを終えると、杏果さんが少し離れたところから私を眺めた。 「うん。やっぱり紗栄子ちゃん、可愛い」 「そうですか?」 「可愛いっていうより、美人かな」 美人。 その言葉には弱い。 しかも言っているのが、私よりずっと美人な杏果さんなのだから、悪い気はしなかった。 「ありがとうございます」 「急に嬉しそうになった」 「そんなことないですよ」 「顔に出てる」 笑われた。 それから杏果さんは、私の肩に手を置いた。 「ごめんね。急にこんなことになっちゃって」 さっきまでとは少し違う声だった。 「無理そうだったら、ちゃんと言うのよ」 「はい」 「海くんなら大丈夫。ああ見えて、こういうときはちゃんとしてるから。任せておけばいいよ」 海。 さっき会った男の顔を思い出す。 態度は悪い。 言葉遣いも悪い。 初対面の女の子を「おまえ」と呼ぶ。 どこに安心できる要素があるのだろう。 ただ、杏果さんがそう言うのなら、少しくらいは信用してもいいのかもしれない。 「杏果さん」 「ん?」 「海とは、今も仲いいんですか?」 「どうして?」 「元カレなんですよね?」 杏果さんが一瞬きょとんとして、それから笑った。 「それ、今気にすること?」 「なんとなく」 「はいはい。その話は撮影が終わってからね」 はぐらかされた。 気になる。 でも、今はそれどころではない。 メイクを直してもらい、私は撮影に使う部屋へ向かった。 扉を開ける。 さっきまで準備をしていたスタッフたちの視線が、一斉に私へ集まった。 「おお」 誰かが声を上げた。 別の誰かが口笛を吹く。 帰りたい。 「いやあ、立花さん。すごい子連れてきたねえ」 ディレクターらしい男の人が、遠慮なく私を見る。 その視線に、私は反射的に腕を身体の前へ持っていった。 やっぱり帰りたい。 「紗栄子」 呼ばれて顔を上げる。 海がソファに座っていた。 「こっち」 さっきまでと変わらない、ぶっきらぼうな言い方だった。 なのに、スタッフに囲まれている今は、その声を聞いただけで少し安心した。 私は言われるまま、海の隣に座った。 近い。 さっきまでは何とも思わなかったのに、これから撮影するのだと思うと急に意識してしまう。 「緊張してんの?」 「してない」 「してるだろ」 「してません」 「じゃあ、手」 「え?」 「震えてる」 自分の手を見る。 少し震えていた。 恥ずかしい。 「初めてなんだって?」 「……悪い?」 「別に」 海は周囲のスタッフをちらりと見てから、私に顔を近づけた。 「周り、気にすんな」 「こんなに人いるのに?」 「撮影始まったら、俺だけ見てればいい」 一瞬、何を言われたのか分からなかった。 「俺とおまえしかいないと思え」 さっきまでの嫌な感じがない。 こういうときだけ別人になるのだろうか。 「おまえのことが好きだ」 「え?」 私は海を見る。 海も私を見ていた。 冗談を言っている顔ではない。 真っ直ぐに、私だけを見ている。 ――え? ちょっと待って。 この人、私のこと好きなの? 確かに私は、自分で言うのも何だけれど、それなりに可愛いとは思う。 さっきは杏果さんから美人とも言われた。 でも、いくら何でも早すぎないだろうか。 会ったばかりだ。 一目惚れ? そういうことって、本当にあるの? それより杏果さんは? 元カレが自分の目の前で別の女に告白しているけれど、これは大丈夫なのだろうか。 頭の中だけが忙しい。 「紗栄子は?」 「へ?」 「俺のこと、どう思ってる?」 どうと言われても。 最初は嫌な奴だと思った。 今も口は悪い。 でも。 私を落ち着かせようとしてくれているのは分かる。 それに、好きだと言われて嫌な気はしなかった。 「……私のこと、好きなんでしょ?」 「ああ」 「じゃあ、私も好き」 海が少し笑った。 「分かった」 そして私の手を取る。 「あとは俺に任せろ」 その一言で、不思議なくらい肩から力が抜けた。 何だ。 嫌な奴だと思っていたけれど、意外と頼りになる。 少なくとも今は、周りにいる大勢のスタッフより、海の方がずっと信用できた。 撮影が始まった。 何をどうすればいいのか分からない私を、海がそのたびに誘導してくれる。 周囲から指示が飛んでも、海だけを見ていればよかった。 俺だけ見てろ。 さっき言われた言葉を思い出す。 だから、そうした。 最初は演じているつもりだった。 カメラの前で、海を好きな女の子になればいい。 そう思っていた。 けれど、海が私を見る目は思っていたより優しくて、撮影が進むうちに、どこまでが演技なのか自分でも分からなくなっていった。 さっきまで嫌な奴だったはずなのに。 不思議だった。 こんなふうに誰かから見つめられたことなんて、今まであっただろうか。 やがて――。 「カーーット!」 ディレクターの声が響いた。 終わった。 途端に身体から力が抜ける。 「紗栄子ちゃん!」 杏果さんが駆け寄ってきて、私にガウンを掛けた。 「よく頑張ったね」 そのまま抱きしめられる。 「杏果さん……」 「うん?」 「私、ちゃんとできてました?」 「十分。すごくよかった」 頭を撫でられた。 ほっとしたら、今さら緊張が戻ってきたような気がした。 「海くんも、ありがとう」 杏果さんが声をかける。 「別に」 海はもういつもの顔に戻っていた。 「俺、このあとバイトあるから。上がります」 「お疲れさま」 海がさっさと部屋を出ていく。 私はその背中を目で追った。 撮影中とは全然違う。 さっきまであんな目で私を見ていたのに。 何なのだろう。 この人は。 * 着替えるために控室へ向かっていると、ちょうど海が出てきた。 もう普段着に着替えている。 「あ、海」 気づいたら呼び止めていた。 「ん?」 「もう帰るの?」 「バイトあるから」 「そっか」 行ってしまう。 そう思ったら、聞かずにはいられなかった。 「あのさ」 「何?」 「私たち、これからどうする?」 海が眉を寄せた。 「これから?」 「うん」 「何が?」 何がって。 そこまで言わせるの? 「さっき、私のこと好きって言ったじゃん」 一瞬。 海の動きが止まった。 「……おまえ、もしかして」 「何?」 「本気にした?」 「え?」 「あれ、演技だよ」 頭の中で何かが止まった。 「……演技?」 「おまえに役へ入ってもらうための」 「ええっ!」 思わず声が出た。 「嘘だったの?」 「嘘っていうか、撮影だから」 「だって、あんな顔で言うから!」 「仕事だよ」 「その気にさせておいて!」 「だから悪かったって」 海が笑う。 腹が立つ。 ものすごく腹が立つ。 私は本気で、この人が私に一目惚れしたのだと思っていたのに。 ……人には言えない。 絶対に言えない。 「もういい!」 背を向けようとしたときだった。 ぽん、と頭に手が乗った。 「わりぃ」 振り返る。 「でも、おまえ良かったよ」 海はもう笑っていなかった。 「初めてなのに、よく頑張ったな」 胸の奥が、きゅっと縮んだ。 ずるい。 さっきまで腹が立っていたのに。 「……また会える?」 口から出ていた。 海が少しだけ目を細める。 「さあな」 「何それ」 「じゃあな」 海はそれだけ言うと、片手を上げて歩いていった。 私はその後ろ姿を見送った。 やっぱり嫌な奴だ。 そう思う。 思うのだけれど――。 見えなくなるまで、なぜか目を逸らせなかった。

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