むかいぬこ(@mukainuko) / 第109話

第24話 苦い味

早川君は、昨日の服のままだった。 シャツも、パンツも、昨夜居酒屋を出たときと同じ。 少し乱れた髪。 走ってきたせいなのか、額にはうっすら汗が浮いている。 「ごめん。待った?」 「ううん、今来たところだけど……」 目が、またシャツへ行く。 間違いない。 昨日と同じだ。 昨日。 私は美鈴を早川君に任せた。 かなり酔っていたから、一人で帰すのは心配だった。 それに――。 二人きりになれば、何か進展があるかもしれない。 そんなことまで考えていた。 私は早川君の恋を応援すると決めたのだから、それでいいはずだった。 「どうしたの?」 「え?」 「なんか変な顔してる」 「してないよ」 「してるけど」 「してません」 早川君が首を傾げる。 私はもう一度シャツを見る。 どうして昨日と同じ服なのだろう。 「あの……」 聞いていいのだろうか。 いや。 聞くべきではない。 そのあと二人がどうしたのかなんて、私には関係ない。 関係ない。 ……はずなのに。 「昨日、ミリン……大丈夫だった?」 結局、聞いてしまった。 「ああ。それが大変だった」 「大変?」 「とりあえず中、入ろうか。ここで話すのもなんだし」 「あ、うん」 早川君が鍵を開ける。 部屋へ入ると、見慣れた景色があった。 何度も通ううちに、最初に来たころほど緊張しなくなった部屋。 早川君は「先に始めてて」と言い残し、シャワーを浴びに行った。 私はいつもの場所へ座る。 早川君の部屋に置かれたノートパソコンを開いたものの、画面を見ても文章が頭に入ってこない。 昨日と同じ服。 朝帰り。 美鈴を送っていった。 分かりやすい材料ばかりが、頭の中で勝手につながっていく。 早川君の恋を応援すると決めた。 だから、もし二人の関係が進んだのなら、喜ばなければいけない。 そう思うのに。 全然、嬉しくなかった。 しばらくして浴室の扉が開いた。 「ごめん、待たせた」 「ううん」 髪を乾かしながら、早川君が昨夜のことを話してくれた。 美鈴は帰りたくないと言って新宿で降りた。 酔いが回ってまともに歩けなくなり、結局、休めるところで酔いが醒めるのを待った。 朝になってから美鈴を送り届け、そのまま急いで戻ってきたらしい。 「それだけ?」 思わず聞いていた。 「それだけって?」 「あ……」 しまった。 「何でもない」 「何か誤解してない?」 「してないよ」 「してる顔だと思うけど」 「してません」 二回目だ。 「本当に何もなかったよ」 「……そう」 何もなかった。 その言葉を聞いた瞬間だった。 胸の奥にずっと引っかかっていたものが、すっと軽くなった。 「……よかった」 「え?」 「あ、ミリンが。無事でよかったね」 「うん」 そうだ。 美鈴が無事だったから安心した。 友達なのだから当然だ。 それだけ。 それ以外に理由なんてない。 私はノートパソコンへ向き直った。 「じゃあ、始めようか」 「うん」 今度は不思議なくらい、文章が頭に入ってきた。 * それからは、いつもの土曜日だった。 私は紗栄子の続きを書き、早川君も自分の小説を進める。 途中で昼食をとって、お互いに書いたものを読んで、気になるところを指摘し合った。 気がつけば、窓から入ってくる光がずいぶん傾いていた。 「もうこんな時間か」 早川君の声に時計を見る。 五時を回っている。 「今日は結構書けたね」 「うん。朝はどうなるかと思ったけど」 「朝?」 「なんでもない」 パソコンを閉じる。 思っていた以上に捗った。 朝から引っかかっていたものがなくなったせいだろうか。 「夕飯、食べていかない?」 早川君が言った。 「夕飯?」 「この時間から帰って作るの、大変じゃない?」 その通りだった。 うちへ帰って冷蔵庫を開けても、たいしたものは入っていない。 「どこかで食べる?」 「うん。せっかくだし」 私は少し迷ってから頷いた。 「安いところなら」 「そこは絶対なんだ」 「重要です」 パソコンはそのままにして、二人で部屋を出た。 * 駅の方へ歩いていくと、夕食時にはまだ少し早いというのに、いろいろな店から匂いが漂ってくる。 昼間ずっと頭を使っていたせいなのか、急にお腹が空いてきた。 「何食べようか」 「安くて、お腹いっぱいになるもの」 「綾瀬さん、そればっかりだね」 「重要だから」 言ったところで、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。 思わず足を止める。 通り沿いの店から煙が立ち上っていた。 焼き鳥。 店先で焼かれている串に、たっぷりとタレが塗られている。 じゅっ、と音がするたびに煙が上がる。 「…………」 お腹が鳴った。 しかも、結構大きな音で。 「ここにする?」 早川君が笑っている。 聞こえたらしい。 「……そうしよう」 恥ずかしいので否定はしなかった。 店に入ると、カウンターへ案内された。 目の前で串が焼かれている。 鶏肉だけでも何種類もある。 皮。 ねぎま。 つくね。 レバー。 メニューを見ても、何がどう違うのかよく分からない。 「焼き鳥屋さんって、あんまり来たことない」 「僕もそんなにないよ」 「じゃあ、適当に頼もうか」 「そうだね」 何本か注文する。 そこで早川君が、飲み物のメニューを見ながら言った。 「ビール、飲んでみる?」 「え?」 顔を上げた。 「昨日、蜂矢さんが飲んでるの見て、ちょっと興味出て」 「ああ……」 美鈴。 昨日の楽しそうな顔を思い出す。 「でも、まだ二十歳じゃないよ」 「もうすぐだけどね」 「もうすぐは、まだ十九歳だよ」 「確かに」 二人で笑った。 笑ったのだけれど。 もう一度、メニューを見る。 ビール。 飲んだことはない。 美味しいとも思えない。 なのに、昨日の美鈴を見ていると少しだけ興味があった。 飲んだら、あんなふうに何でも言えるようになるのだろうか。 「……一本だけ?」 「一本を二人で」 「ちょっとだけ?」 「ちょっとだけ」 いけないことを相談しているせいか、自然と声が小さくなる。 「……じゃあ」 負けた。 焼き鳥の匂いに。 たぶん。 瓶ビールが運ばれてきた。 小さなグラスに注ぐ。 泡が思ったより多い。 「何に乾杯する?」 「何って……」 考える。 「コンテスト?」 「まだ完成してないよ」 「じゃあ、完成祈願」 「それなら」 グラスを合わせる。 小さな音がした。 初めてのビールを一口飲んだ。 「…………」 「どう?」 「苦い」 「僕も」 二人で顔をしかめた。 でも、そのあとに食べた焼き鳥は驚くほど美味しかった。 甘辛いタレ。 香ばしく焼けた肉。 またビールを少し飲む。 やっぱり苦い。 なのに、さっきより飲める。 「不思議」 「何が?」 「苦いのに、焼き鳥食べるとまた飲める」 「分かる」 一本だけ。 半分ずつ。 そのはずだった。 * 「……暑い」 「綾瀬さん、大丈夫?」 「大丈夫」 大丈夫ではないかもしれない。 店を出たころには、足元が少し頼りなくなっていた。 初めてなのだから、どれくらい飲めばどうなるのかなんて分からない。 早川君も顔が赤い。 「ちょっと休んでから帰った方がいいかも」 「うん……」 幸い、早川君のマンションは近い。 少し休んで、酔いが醒めてから帰ればいい。 その程度に考えていた。 部屋へ戻る。 「水、飲む?」 「うん」 ソファへ座った。 水を受け取る。 冷たくて気持ちいい。 「ちょっとだけ横になっていい?」 「どうぞ」 「ちょっとだけだから」 「うん」 そこまでは覚えている。 * 目を開けると、部屋が暗かった。 「……あれ?」 一瞬、どこにいるのか分からなかった。 身体を起こす。 頭が重い。 隣から寝息が聞こえる。 早川君だ。 床に座ったまま、ソファにもたれて眠っている。 「早川君」 返事はない。 スマートフォンを見る。 一時十二分。 「……え?」 もう一度見る。 一時十二分。 午前。 「ええっ!?」 声に反応して、早川君が身体を動かした。 「……ん?」 「早川君!」 「え……何?」 「一時!」 「一時?」 「夜中の!」 早川君が飛び起きた。 スマートフォンを確認する。 「うわ……」 「電車……」 調べるまでもなかった。 もうない。 八王子まで帰れるはずがない。 「どうしよう……」 頭から酔いが吹き飛んだ。 いや、少し残っているけれど、それどころではない。 「タクシー……」 早川君が言う。 「無理」 即答した。 「僕が払うよ」 「もっと無理」 吉祥寺から八王子までいくらかかるのか知らない。 知らないけれど、絶対に安くない。 「でも、このままじゃ帰れないよ」 「分かってる」 どうしよう。 ホテル。 もっと無理。 お金がない。 漫画喫茶。 一人で夜を明かしたことなんてない。 それに――。 目の前に早川君の部屋がある。 考えないようにしていた答えが、一番近くにあった。 早川君も同じことを考えたらしい。 「あのさ」 「うん」 「嫌じゃなかったら……」 少し間があった。 「ここ、泊まってく?」 心臓が跳ねた。 朝まで。 早川君の部屋に。 二人きりで。 「…………」 でも、帰る方法がない。 私は小さく頷いた。 「……お願いします」 * このまま寝るわけにもいかないので、近くのコンビニへ行くことになった。 歯ブラシ。 化粧落とし。 洗顔。 下着。 明日の朝に必要になりそうなものを、かごへ入れていく。 一泊するだけなのに、意外と必要なものが多い。 「…………」 下着をかごへ入れるところだけは、早川君に見られないようにした。 別に見られて困るものではない。 困るけど。 「他にいるものある?」 少し離れたところから早川君が聞く。 「ない!」 「なんで怒ってるの?」 「怒ってない!」 必要なものを買って、店を出る。 さっきまでより夜の空気が冷たかった。 その時。 スマートフォンが震えた。 画面を見る。 千佳。 《軍曹、生きてる?》 その下に、もう一件。 《今日も早川君のところ?》 私は画面を見たまま立ち止まった。 「綾瀬さん?」 「ううん。なんでもない」 「友達からメッセージなの。先に出てて」 「うん。じゃあ外で待ってる」 先にお店を出ていく早川君の背中を見送って、スマートフォンを伏せた。 今、説明するのは面倒だった。 それに。 なんと説明すればいいのか、自分でも分からない。 男の子の部屋に来て。 一緒に焼き鳥を食べて。 お酒を飲んで。 寝過ごして。 電車がなくなって。 今夜、泊まることになりました。 文字にしたら、余計にまずい気がする。 あとで返そう。 そう思って、スマートフォンを鞄へしまった。

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