むかいぬこ(@mukainuko) / 第91話

第6話 触れた頬と頬

「さ、入って」 早川君に促され、私はおそるおそるエントランスへ足を踏み入れた。 外から見ても立派だったけれど、中へ入るとさらに場違いな気分になった。 床はつるつるに磨かれ、正面にはちょっとしたホテルみたいなロビーがある。置かれているソファも、たぶん私の部屋にある座椅子よりずっと高い。 比べるものが悲しい。 早川君はそんな私を気にする様子もなく、慣れた足取りでエレベーターへ向かった。 当たり前だ。 住んでいるのだから。 「すごいところに住んでるんだね」 「そう?」 「そうだよ。学生の一人暮らしって、もっとこう……」 「こう?」 自分の部屋を思い浮かべる。 古いアパート。 狭いキッチン。 テレビなし。 Wi-Fiなし。 家賃は安い。 「……なんでもない」 言うのをやめた。 早川君は不思議そうな顔をしながら、八階のボタンを押した。 「親が勝手に契約してくれたんだよ。僕はこんな広いところじゃなくてもいいって言ったんだけど」 「勝手に……」 一度でいいから言ってみたい。 親が勝手に高級マンションを契約して困っている、と。 エレベーターが静かに上昇していく。 音もほとんどしない。 私のアパートなんて、誰かが階段を上がってくるだけで分かるのに。 「…………」 何か話した方がいいのだろうか。 昨日まで大学で普通に話していた相手なのに、二人きりでエレベーターに乗っているだけで妙に緊張する。 早川君は正面を向いている。 私も正面を向く。 階数表示が一つずつ増えていくのを眺める。 六。 七。 八。 少しだけ、ほっとした。 「こっち」 エレベーターを降り、今度は早川君の後について廊下を歩く。 考えてみれば、吉祥寺へ着いてからずっと早川君の後ろをついて歩いている。 途中で一度、歩幅を合わせてもらったけれど。 「ここだよ」 早川君が一つのドアの前で立ち止まり、カードのようなものをかざす。 短い電子音のあと、重そうな鍵が開く音がした。 玄関まで立派だ。 私のアパートの薄いドアとは、閉まる音からして違う。 「どうぞ」 「お、おじゃまします」 靴を脱いで、きちんと揃える。 そこで一度、動きが止まった。 人の家へ来たら、次はどうすればいいんだろう。 勝手に上がっていいのかな。 「綾瀬さん?」 「あ、うん」 早川君が先に上がったので、私も後に続いた。 短い廊下の先にあるドアを抜けると、広いリビングが現れた。 「……広っ」 思わず声が出た。 たぶん、リビングだけで私の部屋より広い。 大きなテレビがあり、その前には二、三人なら余裕で座れそうなソファが置かれている。床には柔らかそうなラグまで敷かれていて、全体的に物は少ないけれど、きれいに片付いていた。 「適当に座って。飲み物持ってくるから」 「う、うん」 適当に、と言われるのが一番困る。 ソファに座ればいいのだろうけれど、なんとなく遠慮してしまい、私はローテーブルの脇に腰を下ろした。 ラグがふかふかだ。 座った瞬間、少し沈んだ。 うちにも欲しい。 値段を知ったら欲しくなくなるかもしれないけど。 早川君は対面式のキッチンへ入り、冷蔵庫を開けている。 その様子を眺めながら、私は改めて部屋を見回した。 大学にいるときの早川君からは、こんな生活をしているなんて想像もしなかった。 伸びっぱなしの髪に、眼鏡。 無精ひげ。 服だって、特にお洒落というわけではない。 お金持ちの息子というより――。 「……やっぱり人って、見た目じゃ分からないな」 「何か言った?」 「ううん、何でもない」 危ない。 聞かれるところだった。 「早川君って、お金持ちだったんだね」 代わりにそう言うと、冷蔵庫の中を覗いていた早川君が顔だけこちらへ向けた。 「僕がお金持ちなわけじゃないよ。親が医者だから、お金はあるのかもしれないけど」 「お医者さんなんだ」 それなら、この部屋にも少し納得できる。 同時に、別の疑問が浮かんだ。 「じゃあ、早川君も医学部に行けって言われなかったの?」 言った直後に後悔した。 しまった。 人の家庭の事情に、ずかずか踏み込んでしまった。 「ご、ごめん。余計なこと聞いた」 「別にいいよ」 早川君は気にした様子もなく、冷蔵庫からジュースを取り出した。 「僕は最初から医者になる気なかったし。妹が医大を目指してるから、親もそっちに期待してるみたい」 「妹さん、いるんだ」 「うん。高校生。東京の医大を受けるつもりらしいよ」 「へえ……」 早川君に妹がいる。 今まで考えたこともなかった。 どんな子なんだろう。 早川君に似ているのかな。 「まあ、まだ先の話だけどね」 そう言って、早川君は話を終わらせた。 私もそれ以上は聞かなかった。 ただ、早川君に高校生の妹がいるということだけは、なんとなく頭に残った。 「オレンジジュースしかないんだけど、いい? コーヒーなら淹れられるけど」 「オレンジジュースで大丈夫。ありがとう」 早川君が二つのグラスをテーブルへ運んでくる。 「どうぞ」 「ありがとう」 グラスを受け取ったところで、リュックの存在を思い出した。 正確には、その中身を。 クッキー。 ここへ来るまでは、渡すつもりだった。 早川君の部屋へお邪魔するのだから、手ぶらでは悪いと思って、朝から作った。 材料費を抑えて。 フライパンで焼いて。 百均の袋に入れた。 「…………」 この部屋で見ると、想像以上に貧相だ。 さっきまでは、それなりに可愛くできたと思っていたのに。 こんな生活をしている早川君なら、もっとちゃんとしたお菓子を食べているんじゃないだろうか。 わざわざ手作りの、それも私が作った安っぽいクッキーなんて渡されても困るだけかもしれない。 リュックのジッパーに手をかける。 少し開ける。 止める。 閉める。 何をやっているんだ、私は。 「綾瀬さん?」 「え?」 「荷物、出していいよ。昨日持ってた本?」 「あ……うん」 反射的に答えてしまった。 違う。 いや、本も入っているけど。 「どうしたの?」 早川君が少し屈んで、私の顔を覗き込んだ。 眼鏡の奥の目は、いつもと変わらない。 心配そうに私を見ている。 私は、また余計なことを考えている。 安いとか。 迷惑かもしれないとか。 こんな立派な部屋に住んでいる人だからとか。 勝手に早川君との間に線を引いて、勝手に落ち込んでいる。 そういうところが、自分でも嫌になる。 それに――。 さっき余計なことを聞いてしまったときから、私はずっと早川君の顔色を気にしている。 嫌われていないだろうか。 そんなことばかり考えている。 いつからだろう。 早川君に、嫌われたくないと思うようになったのは。 「……あのね」 覚悟を決めて、リュックを開けた。 中から小さな袋を取り出す。 やっぱり百均は百均だ。 急に高級品に見えたりはしない。 「これ」 早川君へ差し出した。 「クッキー焼いてきたの。今日、部屋にお邪魔するから……その、お口に合うか分からないけど」 早川君が袋を見る。 私を見る。 もう一度、袋を見る。 「…………」 なぜ黙る。 やっぱり迷惑だった? 「あ、あの、別に無理して食べなくても――」 「これ、綾瀬さんが作ったの?」 「う、うん」 「手作り?」 「そうだけど……」 次の瞬間、早川君の顔がぱっと明るくなった。 「すごい。ありがとう!」 「え?」 「僕、女の子から手作りのお菓子もらうの初めてなんだ」 袋を持ち上げ、嬉しそうに中を覗いている。 「本当に? でも、そんな大したものじゃないよ。フライパンで焼いただけだし」 「それでも作ったんでしょ?」 「まあ……」 「じゃあ、すごいよ。ありがとう」 また言った。 ありがとう。 そんなに何度も言われるようなものではないと思う。 今朝、台所でフライパンと格闘していたときだって、ここまで喜んでもらえるなんて考えていなかった。 でも。 早川君が嬉しそうにしている。 それを見ていると、私まで嬉しくなってくる。 胸の奥が、少しだけ温かい。 紗栄子の気持ちが分からないと悩んでから、自分の感情を意識することが増えた。 待ち合わせで落ち着かなかったこと。 早川君を見つけたとき、ほっとしたこと。 服を褒められて嬉しかったこと。 歩く速さを合わせてもらったこと。 そして今。 自分の作ったものを喜んでもらえて、私まで嬉しい。 こういう気持ちも、小説に書けるのだろうか。 「…………」 早川君が、こちらを見た。 目が合った。 どうやら私は、ずっと早川君の顔を見ていたらしい。 「……なに?」 「ううん」 慌てて視線を逸らす。 「なんでもない」 「そう?」 早川君は不思議そうにしながら、クッキーをテーブルの上へ大事そうに置いた。 それから少し照れたように咳払いをする。 「じゃあ……そろそろ始めようか」 「う、うん」 始める。 そうだった。 今日はクッキーを渡しに来たわけではない。 官能小説を書くための勉強をしに来たのだ。 早川君がテーブルの上に置いてあったタブレットを手に取る。 「どんなのが参考になるかな……」 画面を操作しながら呟くので、私も横から覗き込んだ。 文字が小さい。 もう少し近づかないと見えない。 私は身体を寄せる。 早川君も、こちらへ画面を向けようと少し動いた。 近い。 そう思ったときだった。 頬に、何かが触れた。 「――っ」 早川君の頬だった。

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