むかいぬこ(@mukainuko) / 第112話
第27話 何か間違えてる?
「どれ?」
「まだ来てない」
「どれ?」
「だから、まだだって」
大学に着いてからというもの、千佳はずっとこの調子だった。
すれ違う男子学生を見つけては私の袖を引っ張り、そのたびに「あれ?」「違う」「じゃあ、あっち?」「違う」を繰り返している。
「ねえ、特徴を教えてよ。背は?」
「高い方かな」
「髪は?」
「今は後ろで結んでる」
「イケメン?」
「……どうだろ」
「そこは即答してよ」
だって、よく分からない。
最初に図書館で会ったときは、長い髪に眼鏡で、正直なところ地味な人だと思った。
でも、髪を整えて、ちゃんとした服を着れば――。
「まあ……格好いい方なんじゃないかな」
「ほう」
千佳がニヤッとした。
「なに?」
「好きな男を格好いいと言いましたな、軍曹」
「もう帰る?」
「ごめんなさい」
まったく。
昨日まで私のことを心配して鹿児島から来た親友だったはずなのに、一晩寝たらすっかり観光気分になっている。
それにしても――。
「…………」
さっきから、妙に視線を感じる。
正確には、私ではない。
千佳だ。
すれ違った男子学生がちらっとこちらを見る。友達と話しながら歩いていた学生まで、一度通り過ぎてから振り返った。
女の子も見ている。
そのたびに千佳は、
「ねえ、今の人?」
と私に聞く。
違う。
あなたを見ていたのだ。
そういえば、電車の中でもそうだった。
八王子から電車に乗り、明大前で乗り換えたあたりから、何人かの男の人が千佳を見ていた。
本人は慣れない東京の電車に必死で、まったく気づいていなかったけれど。
千佳は可愛い。
それも、かなり。
中学のころから一緒にいる私にとっては見慣れた顔なので、普段はあまり意識しない。
でも、こうして知らない人ばかりの場所へ連れてくると、あらためて分かる。
小さな顔に大きな目。少し明るい髪は肩より長くて、黙っていれば清楚なお嬢様に見えなくもない。
黙っていれば。
そこは重要だ。
「ねえ、カノン」
「なに?」
「さっきから、なんか見られてない?」
やっと気づいたらしい。
「そうだね」
「やっぱり?」
千佳が急に自分の服を確認し始めた。
「なんか変? 東京の大学にこんな格好で来たら田舎者丸出しとか?」
「別に普通だよ」
「じゃあ、顔になんかついてる?」
「ついてない」
「かすたどん?」
「昨日食べたでしょ」
頬を擦っている千佳を見て、私はため息をついた。
自覚がない。
千佳は昔からそうだ。
自分が男子にモテないのは、胸が小さいからだと本気で思っている。
違う。
男子が近づいてくると、まともに顔を見られなくなって、一言も喋れなくなるからだ。
私といるときは、これだけうるさいのに。
以前、千佳自身が「男性免疫不全症候群」と名付けた。
病名として正しいのかは知らない。
たぶん、そんな病気はない。
「まあ、いいじゃん。行こう」
「どこへ?」
「早川君を探すんでしょ」
「そうだった!」
目的まで忘れていたらしい。
「オオカミの顔を拝んでやる」
昨日と同じことを言いながら、千佳がずんずん歩き出す。
「千佳、そっちじゃないよ」
「……知ってた」
「嘘つけ」
方向音痴のくせに、どうして先頭を歩きたがるのだろう。
仕方なく私が前を歩いた。
*
「あ」
いた。
校舎へ向かって歩いてくる早川君を見つけた。
「千佳」
「どれ?」
「あの人」
「どれどれ?」
さっきまでの勢いで千佳が私の隣に並ぶ。
「ほら。眼鏡かけて、髪を後ろで結んでる――」
「えっ」
「こっち来るよ」
「ちょっと待って」
急に私の後ろへ隠れた。
「何してるの?」
「心の準備」
「狼の顔を拝むんじゃなかったの?」
「うるさい」
声が小さい。
さっきまでの曹長はどこへ行った。
早川君も私に気づいた。
「綾瀬さん、おはよう」
「お、おはよう」
昨日の夕方まで一緒だったのに。
たった一晩しか経っていないのに、妙に顔を見づらかった。
好きだと気づく前なら、普通に話せた。
でも今は、早川君の顔を見るだけで、昨夜の月を思い出してしまう。
「その人は?」
早川君が私の後ろを見る。
「あ、地元の友達。昨日、鹿児島から来たの」
私は半歩ずれて、千佳を前に出した。
「村松千佳」
「は、はじめまして」
小さい。
声がものすごく小さい。
「早川です」
「…………」
「千佳?」
「……どうも」
目を合わせない。
早川君が少し困ったように私を見る。
私は小さく首を振った。
気にしないで、という意味だ。
たぶん伝わった。
「鹿児島から来たんだ」
「…………はい」
「東京には遊びに?」
「…………はい」
誰だ、この人。
昨日、
『そのふざけた奴の顔を拝んでやる』
くらいの勢いだった人と同一人物とは思えない。
「大学見てみたいっていうから、連れてきたの」
私が代わりに答えた。
「そうなんだ」
早川君が笑った。
「ゆっくり見ていけばいいよ」
「…………はい」
ダメだ。
曹長は完全に戦闘不能だった。
この人に早川君を問い詰めてもらおうと思った私が馬鹿だった。
「それで……」
早川君が私を見る。
「昨日、大丈夫だった?」
「え?」
「眠かったでしょ?」
「ああ、うん。電車でもちょっと寝たから」
「そっか」
それだけの会話。
なのに。
千佳が横で私たちを交互に見ているのが分かった。
「早川君は?」
「僕も、ちゃんと寝たよ」
「そっか」
「うん」
また会話が切れた。
昨日までなら、こんなことはなかった気がする。
何か話さなきゃ。
そう思えば思うほど、何を話せばいいのか分からなくなる。
「あの!」
突然、千佳が声を上げた。
私も早川君も驚いて彼女を見る。
千佳は早川君を見――ていなかった。
顔はそちらを向いているのに、視線だけが微妙にずれている。たぶん早川君の肩か、その少し向こうにある植木あたりを見ている。
「はい?」
「あ、あの……」
さっきまでの勢いはどうした。
狼の顔を拝んでやるとか、本人に聞いてやるとか言っていたくせに、いざ狼を目の前にすると声まで小さくなっている。
「千佳?」
「分かってる。今、言うから」
なぜか私に怒った。
それから一度だけ息を吸って、千佳は早川君――の肩のあたりを見た。
「カノンの……その、小説に付き合ってくれてることは、すごく感謝してます」
「え?」
「パソコンも貸してくれてるって聞いたし、いろいろ教えてくれて……。カノン、一人だったら、たぶんここまで書けてないと思うから」
思ってもいなかった言葉が出てきた。
てっきり、いきなり早川君を責めるのかと思っていた。
「だから、その……ありがとうございました」
千佳がぺこりと頭を下げる。
「あ、いや。僕も綾瀬さんに読んでもらってるから。お互い様だよ」
「でも!」
頭を上げた千佳の声が、少しだけ大きくなった。
「やっぱり、良くないと思うんです」
「千佳……」
「だって、早川君には好きな人がいるんですよね?」
早川君が一瞬、黙った。
「……いるよ」
胸の奥が痛んだ。
分かっていたことなのに、本人の口から聞くとやっぱり違う。
千佳も少し怯んだようだった。
それでも、今度は逃げなかった。
「あの……それなら、なおさら」
「うん」
「毎週、女の子と二人きりで部屋にいるのって……どうなのかなって」
早川君が私を見る。
つられて私も早川君を見る。
目が合った。
すぐに逸らした。
「もちろん、小説を書いてるだけなのは分かってます。カノンから全部聞いたから」
全部。
その言葉に、昨日のことまで思い出してしまった。
「でも昨日は、その……泊まったって」
「千佳!」
「だって、そこ大事でしょ!」
「本人の前で言わなくてもいいでしょ!」
「本人に言わなきゃ意味ないじゃん!」
それはそうなのだけれど。
「泊まった?」
早川君が首を傾げる。
「昨日のこと?」
「そ、そうです」
「終電がなくなったからだけど」
「それも聞きました」
千佳の声がまた小さくなる。
「別に、二人が何かしたって疑ってるわけじゃないんです。何もなかったのも聞いたし……」
そこで千佳は、なぜかちらっと私を見た。
何だ。
「ただ……」
言葉を探している。
「早川君が何とも思ってなくても、好きな人の方は、そう思わないかもしれないじゃないですか」
早川君の眉が、ほんの少し動いた。
「もし、その人が知ったら……嫌なんじゃないかなって」
「…………」
「毎週二人で過ごして、ご飯食べたりして。それで昨日は、事情があったとはいえ一晩一緒にいて……」
千佳の勢いが少しずつ落ちていく。
それでも、最後まで言おうとしているのが分かった。
「私だったら……たぶん、嫌です」
早川君は何も言わない。
「だから、その……」
千佳が困ったように私を見る。
助けを求められても困る。
「えっと……」
ついに止まった。
やっぱりダメだった。
「千佳、もういいよ」
「でも」
「言いたいことは分かったから」
私がそう言うと、千佳は少し悔しそうな顔をした。
すると。
「確かに」
早川君が口を開いた。
「村松さんの言うことは、もっともだと思う」
「……ですよね」
千佳が少しだけほっとする。
「でも」
早川君が続けた。
「たぶん、肝心な部分に誤解があると思う」
「誤解?」
私と千佳の声が重なった。
顔を見合わせる。
「何が?」
早川君はすぐには答えなかった。
私を見て、それから千佳を見る。
「その……」
珍しく言いにくそうにしている。
「綾瀬さんは、どう思ってるの?」
「わたし?」
どう思ってるって。
何を?
早川君とのこと?
互助関係のこと?
それとも――。
「わたしは……」
言葉が出なかった。
昨日なら答えられたかもしれない。
小説を書くため。
お互いのため。
ただの互助関係。
そう言えばよかった。
でも。
もう言えない。
私は早川君が好きだ。
それを知ってしまった。
好きな人と毎週二人きりで過ごして、一緒にご飯を食べて、帰り道を歩いて。
昨日は同じ部屋で夜を過ごした。
何もなかった。
本当に何もなかった。
だからこそ――。
このまま何でもない顔をして、来週も同じことを繰り返せるのだろうか。
早川君には、好きな人がいるのに。
「……早川君」
「うん」
「互助関係なんだけど」
口にしただけで、胸が痛んだ。
「そろそろ、終わりにしようかなって思ってる」
「え?」
早川君だけではない。
千佳まで驚いた顔をした。
「カノン?」
「わたしも、だいぶ書けるようになったから」
「でも、まだ完成してないよね」
「うん」
「だったら最後まで――」
「大丈夫」
思ったより強い声が出た。
「ここからは、自分で書いてみたい」
嘘ではない。
でも、それが全部でもない。
「それに、早川君も自分の小説があるでしょ?」
「それはそうだけど……」
「今まで、わたしばっかり助けてもらったから」
笑ってみせる。
たぶん、うまく笑えていない。
「ありがとう」
言った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
これで終わる。
毎週土曜日。
早川君の部屋へ行って、パソコンを借りて。
一緒にご飯を食べて。
くだらない話をして。
小説を読んでもらって。
帰り道を歩く。
昨日まで当たり前だったものが、一つずつ過去になっていく。
早川君はしばらく黙っていた。
何か言いかけたようにも見えた。
でも。
「……分かった」
それだけだった。
胸が、また痛んだ。
引き止めてほしかった。
自分から終わらせようとしているくせに。
「じゃあ、また何か困ったことがあったら言って」
「うん」
「小説も、読みたくなったら読むから」
「……うん」
完全に終わるわけではない。
同じ大学だ。
同じサークルだ。
これからだって会う。
それなのに。
何か大きなものを、自分から手放したような気がした。
「じゃあ、僕、講義あるから」
「うん。またね」
「また」
早川君が歩いていく。
私は、その背中を見送った。
昨日までなら、次の土曜日があった。
また会えると分かっていた。
今はもう、その約束がない。
「……カノン」
千佳が小さく呼んだ。
「なに?」
「ごめん」
「どうして千佳が謝るの?」
「だって……」
千佳は早川君が歩いていった方を見る。
「私が余計なこと言ったから」
「違うよ」
これは、私が決めたことだ。
千佳に言われたからではない。
たぶん、これでいい。
そう思わないと、今すぐ早川君を追いかけたくなる。
しばらく二人とも黙っていた。
やがて千佳が、ぽつりと言った。
「ねえ、カノン」
「ん?」
「なんか……変じゃない?」
「何が?」
「分かんない」
「分からないのに変なの?」
「だから気持ち悪いの」
千佳は眉間にしわを寄せた。
「早川君には好きな人がいる」
「うん」
「でも、美鈴さんじゃなかった」
「うん」
「昨日はカノンと二人きりだった」
「うん」
「なのに何もなかった」
「それは普通でしょ」
「そうなんだけど……」
千佳は首を傾げる。
「それに、さっき」
「なに?」
「『肝心な部分に誤解がある』って言ったじゃん」
「言ったね」
「何の誤解?」
「……分からない」
「でしょ?」
二人で黙った。
美鈴ではなかった。
でも、早川君には好きな人がいる。
私は早川君が好き。
早川君は私に何もしなかった。
そして、私たちは何かを誤解しているらしい。
並べてみても、答えは出ない。
「……なんかさ」
「うん」
「私たち、大事なところで間違えてる気がする」
「何を?」
「それが分からないから困ってる」
何の役にも立たない。
思わず笑ってしまった。
でも――。
早川君も、同じようなことを言っていた。
――肝心な部分に誤解があると思う。
私たちは、何を間違えているのだろう。
考えても、答えは出なかった。
なぜか、その言葉だけが胸に残った。