むかいぬこ(@mukainuko) / 第110話
第25話 片思いの月
コンビニを出ると、早川君は店の前で待っていてくれた。
「お待たせ」
「もういいの?」
「うん」
私は買ったものが入った袋を、なんとなく身体の後ろへ隠した。
歯ブラシに洗顔用品、それから着替え。
別に見られて困るようなものではない。
……いや、困るものも一つ入っている。
「じゃあ、戻ろうか」
「うん」
並んで歩き出す。
もう日付も変わっているというのに、駅前にはまだ人が残っていた。酔っ払って大きな声で笑っている人もいれば、これからどこかへ向かうらしい人もいる。
いつもなら、私はこの時間に吉祥寺を歩いていない。
というより、こんな時間に東京の街を歩いていること自体、ほとんどない。
しかも隣に男の子がいる。
そして今から、その男の子の部屋へ帰る。
帰る、という言い方も変だけど。
「…………」
急に意識してしまった。
「どうしたの?」
「なんでもない」
「袋、持とうか?」
「これはダメ!」
思わず強い口調になった。
「……ダメ?」
「あ、いや。軽いから。自分で持てる」
「そっか」
危ない。
非常に危ない。
下着の入ったコンビニ袋を早川君に渡すところだった。
もっとも、持ってもらったところで中身を見るわけではないのだけれど、そういう問題ではない。
少し先を歩く早川君を追いかける。
歩幅が違うから、油断すると少しずつ離される。
前にもこんなことがあった。
暗い公園で置いていかれそうになって、早川君の袖をつかんだ。
あのときは怖かったから。
そう思っていた。
でも、本当にそれだけだったのだろうか。
今日だってそうだ。
朝、昨日と同じ服を着た早川君を見たとき、胸がざわついた。
美鈴と一晩一緒だったのかもしれない。
そう思った。
私は二人がうまくいけばいいと思っていたはずなのに、全然嬉しくなかった。
それどころか――。
何もなかったと聞いて、安心した。
どうして?
「綾瀬さん?」
気がつくと、早川君が少し先で立ち止まっていた。
「あ、ごめん」
「また歩くの速かった?」
「ううん。わたしが考え事してただけ」
「小説?」
「……たぶん」
嘘ではない。
今日も紗栄子のことを考えていた。
海に会いたい。
もっと知りたい。
どうしてそんなふうに思うのか、紗栄子自身にもまだよく分かっていない。
私は、それを書いた。
書いたのは私なのに。
今なら、少し分かる気がする。
早川君が私の歩幅に合わせて、ゆっくり歩き出す。
私はその横へ並んだ。
そのときだった。
建物の切れ間から、明るい月が見えた。
「月がきれい……」
思わず足を止める。
早川君も立ち止まった。
「本当だ」
半分だけの月だった。
満月ではない。
半分は明るく輝いているのに、もう半分は夜の中に隠れている。
私はしばらく、その月を見上げていた。
半分。
なぜか、それが今の自分みたいに思えた。
早川君と一緒にいるのは楽しい。
小説を読んでもらうのも好きだ。
私の書いたものを褒めてもらえると嬉しい。
ネックレスをもらったときも。
スカートを褒められたときも。
暗い公園で歩く速さを合わせてくれたときも。
今日、美鈴と何もなかったと知ったときも。
嬉しかった。
だったら、もう半分は?
どうして苦しいんだろう。
どうして美鈴が早川君の髪に触っただけで気になったんだろう。
どうして二人を一緒に帰したあと、あんなに眠れなかったんだろう。
どうして昨日と同じ服を見ただけで、胸が苦しくなったんだろう。
そして。
どうして、何もなかったと聞いて安心したんだろう。
「…………」
答えは、もう目の前にあった。
私が知らなかっただけだ。
いや。
知らないふりをしていただけなのかもしれない。
早川君に会いたい。
一緒にいたい。
もっと知りたい。
この人といる時間が、終わってほしくない。
それは――。
「……そっか」
小さく声が漏れた。
「ん?」
「ううん」
ようやく分かった。
私は、早川君が好きなんだ。
そう思った瞬間、胸の奥に散らばっていたものが全部つながった。
嬉しかったことも。
苦しかったことも。
自分でも理由の分からなかった、あのモヤモヤも。
全部、同じところから来ていた。
恋をしたら、もっと分かりやすいものだと思っていた。
この人が好き。
そういう答えが、ある日突然、頭の中に現れるものだと思っていた。
でも、違った。
気づいたときには、もう好きになっていた。
「…………」
もう一度、月を見る。
好きだと分かった。
その半分は、少し嬉しい。
でも。
早川君には、好きな人がいる。
本人から聞いている。
美鈴だと思っていた。
でも、美鈴とは何もなかった。
だったら誰なのだろう。
竹下先輩?
それとも、私の知らない人?
誰なのかは分からない。
ただ、その人が私だとは思えなかった。
だって早川君は、ずっと私に好きな人がいると話している。
私は、その恋を応援するとまで言ってしまった。
好きだと気づいたばかりなのに。
もう、片思いなんだ。
半分だけ明るい月。
好きになれたことは嬉しい。
でも、その先には行けない。
明るい半分と、暗い半分。
まるで――。
片思いの月だ。
「なんか」
隣から早川君の声がした。
「今の僕みたいだな」
「え?」
見ると、早川君も月を見上げていた。
「あんなに明るいのに、半分だけっていうか」
少し笑う。
「欲しいものが全部手に入ってるわけじゃない、みたいな」
「…………」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
早川君も。
同じなんだ。
「……好きな人のこと?」
聞いてしまった。
早川君がこちらを見る。
目が合った。
ほんの一瞬。
何か言いたそうな顔をした。
「…………」
でも、何も言わなかった。
早川君は月へ目を戻す。
「まあ……そんな感じ」
「そっか」
やっぱり、好きな人のことだった。
誰なんだろう。
美鈴ではなかった。
竹下先輩なのだろうか。
それとも、私の知らない誰か。
聞きたい。
でも、今は聞きたくなかった。
「うまくいくといいね」
口にしてから、胸が痛んだ。
自分の好きな人に、他の人とうまくいけばいいと言っている。
我ながら、何をやっているんだろう。
「……ありがとう」
早川君の返事は、少し遅かった。
それから二人とも何も言わなくなった。
同じ月を見ている。
同じように、半分しか満たされていないと思っている。
なのに私は、早川君が誰を思い浮かべているのか知らない。
早川君も、私が誰を思い浮かべているのか知らない。
本当は、すぐ隣にいるのに。
そんなことを知らない私は、また歩き出した。
「戻ろうか」
「うん」
マンションはもうすぐそこだ。
これから私は、好きだと気づいたばかりの男の子の部屋に泊まる。
さっきまでは、終電を逃したから仕方がないと思っていた。
今はもう、そんな簡単な話ではなくなってしまった。
手にしたコンビニ袋が、急に重く感じる。
中には歯ブラシと、洗顔用品と、着替え。
たった一晩分。
なのに、ものすごいことをしているような気がしてきた。
「…………」
今さら緊張してきた。
遅い。
気づくのが、何もかも遅い。
早川君がマンションの入口で振り返った。
「どうしたの?」
「なんでもない」
今日、何度目だろう。
私は小走りで追いついた。
もう一度、空を見上げる。
半分の月は、まだそこにあった。
好きだと気づく前と、何も変わらない月。
変わってしまったのは、私の方だった。