むかいぬこ(@mukainuko) / 第111話
第26話 親友
電車の揺れが、今日はやけに心地よかった。
日曜日の夕方。
私はようやく八王子へ帰る電車の中にいた。
結局、昨夜はほとんど寝なかった。
早川君の部屋へ戻ってからシャワーを借り、コンビニで買った服に着替えると、そのまま二人で小説の続きを書いた。
泊まることになったときは、どうなることかと思ったけれど、何もなかった。
本当に、何も。
早川君は自分の小説を書いて、私は紗栄子の続きを書いた。
途中で眠くなってコーヒーを淹れて、明け方には二人ともほとんど口を利かなくなって、それでもキーボードを叩いていた。
朝になってから少しだけ仮眠をとり、目を覚ますとまた続きを始めた。
気がつけば昼を過ぎていて、そのまま夕方近くまで書いていた。
我ながら、何をやっているのだろう。
でも、おかげで小説はかなり進んだ。
健全。
ものすごく健全だ。
好きな男の子の部屋に初めて泊まったというのに、やったことは小説を書いただけ。
「…………」
好きな男の子。
その言葉を頭の中で使った途端、昨日の月を思い出した。
半分だけ光っていた月。
私は早川君が好きだ。
昨日、ようやく気づいた。
気づいてしまえば、今までどうして分からなかったのだろうと思う。
会いたかった。
一緒にいると楽しかった。
褒められると嬉しかった。
美鈴と一緒にいると嫌だった。
何もなかったと知って安心した。
こんなに分かりやすいのに。
私はスマートフォンを取り出しかけて、やめた。
千佳からメッセージが来ているはずだ。
昨日の夜、返信しなかった。
今ごろ怒っているかもしれない。
家に帰ってから説明しよう。
ちゃんと。
何をどう説明するかは、そのとき考えればいい。
私は目を閉じた。
すぐに眠気が戻ってきた。
*
八王子駅からアパートまでの十五分が、今日はとんでもなく遠かった。
寝不足の身体に鞄が重い。
途中で何度も、タクシーに乗りたいという誘惑に駆られた。
もちろん乗らない。
十五分のためにお金を使うくらいなら歩く。
貧乏人には貧乏人の意地がある。
ようやくアパートへたどり着き、階段を上る。
そこで足が止まった。
誰かいる。
私の部屋の前。
人がうずくまっていた。
膝を抱えて、顔を伏せている。
「…………」
怖い。
一歩、後ずさる。
でも。
その格好に見覚えがあるような気がした。
「……千佳?」
顔が上がった。
「カノン!」
「えっ」
勢いよく立ち上がった千佳が、そのまま突っ込んできた。
「生きてたー!」
「ちょ、千佳、苦しい!」
「このバカ! メッセージ送っても返事ないし、電話しても出ないし!」
「ご、ごめん」
「男の部屋にいるっぽいし!」
「声大きい!」
近所に聞こえる。
私は慌てて鍵を開けた。
「とりあえず入って」
「おじゃまします!」
さっきまで瀕死みたいにうずくまっていた人とは思えない。
*
「はい」
千佳がテーブルの上に箱を置いた。
「かすたどん」
「おお……」
思わず声が出た。
「わざわざ鹿児島から友達の安否を確認しに来た人間より、かすたどんの方が嬉しそうなんだけど」
「そんなことないよ」
「目が違った」
「そんなことないって」
疲れているせいか、甘いものが無性に食べたい。
コーヒーを淹れて、二人でかすたどんを食べる。
甘い。
美味しい。
生き返る。
「さて」
千佳が二個目へ伸ばそうとした私の手を叩いた。
「痛い」
「事情聴取を始めます」
「食べながらじゃダメ?」
「ダメです、軍曹」
「曹長、横暴です」
「黙れ。貴様には黙秘権などない」
そんなことを言いながら、千佳は自分だけ二個目を取った。
ずるい。
「で?」
「で、って?」
「昨日」
「ああ……」
私は金曜日の夜から順番に話した。
美鈴が酔っ払ったこと。
私が早川君に送ってもらうよう頼んだこと。
翌朝、早川君が昨日と同じ服で帰ってきたこと。
「ほう」
「でも、何もなかったって」
「…………え?」
千佳の手が止まった。
「ミリンとは何もなかったの」
「ちょっと待って」
「うん」
「何も?」
「何も」
「朝帰りなのに?」
「ミリンが酔いすぎて、ずっと付き合ってただけ」
千佳は黙った。
そして腕を組む。
首を傾げる。
反対側へ傾げる。
「……おかしい」
「何が?」
「私たちの推理」
嫌な予感がした。
「早川君がカノンに手を出さないのは、好きな相手がカノンの知り合いだから」
「うん」
「その知り合いは美鈴さん」
「……うん」
「ハズレじゃん」
「そうなるね」
千佳が頭を抱えた。
「軍曹!」
「はい!」
「我々は重大な誤認をしていた!」
「曹長が言い出したんだけど」
「共同責任だ!」
勝手な人だ。
「じゃあ、誰なのよ」
「分からない」
竹下先輩の顔が浮かんだ。
高校時代からの知り合い。
きれいで、大人っぽくて、早川君とも親しい。
「もしかしたら、竹下先輩かも」
「誰よ、それ」
「早川君と同じ高校だった先輩。すごくきれいな人」
「増えた!」
「候補が?」
「容疑者が!」
恋愛を刑事事件みたいに扱わないでほしい。
「それで?」
「それでって?」
「昨日の夜。カノンは早川君の部屋に泊まった」
「うん」
「二人きりで」
「うん」
「カノンは早川君が好き」
「…………うん」
自分で言うのと、人から言われるのでは破壊力が違った。
顔が熱くなる。
「それで、何もなかった?」
「なかったよ。ずっと小説書いてた」
「本当に?」
「本当に」
千佳が腕を組んだ。
そして、ものすごく難しい顔をした。
「おかしい」
「だから、何が?」
「オオカミが羊を襲わなかった」
出た。
狼。
「前にも言ったでしょ。早川君は人間だって」
「比喩!」
千佳が人差し指を立てる。
「いい? カノン」
「はい」
「男の部屋に女の子が泊まった」
「うん」
「しかも、その女の子は早川君のことが好き」
「それは早川君は知らないよ」
「そこはいいの」
「よくないと思うけど」
「なのに、何もなかった」
「だから普通じゃない?」
「……そうなのかな」
千佳が急に弱くなった。
考えてみれば、千佳にも恋愛経験はない。
狼について語っている二人とも、狼に遭遇したことがない。
「でもさ」
千佳が言った。
「前提が一個だけ残ってるよね」
「前提?」
「早川君には、好きな人がいる」
「……うん」
それは本人から聞いた。
そこだけは推理ではない。
「その相手は美鈴さんじゃなかった」
「うん」
「誰なのかは分からない」
「うん」
「でも、カノンは早川君が好き」
「……うん」
「だったら」
千佳の声から、さっきまでのふざけた調子が少し消えた。
「これからも毎週、早川君の部屋に行くの?」
答えられなかった。
「二人でご飯食べて、小説書いて、映画見たりして」
「映画は毎週じゃないよ」
「そういう問題じゃない」
珍しく正論だった。
「早川君に好きな人がいるって分かってるのに、ずっとそんなこと続けられる?」
「…………」
考えたことがなかった。
いや。
昨日までは考える必要がなかった。
私は早川君を好きではないことになっていたから。
互助関係。
小説を書くために、お互いを助ける。
それだけ。
だから毎週部屋へ行けた。
一緒にご飯を食べられた。
ネックレスをもらっても、嬉しいだけで済んだ。
でも。
今はもう違う。
「もしさ」
千佳が続ける。
「早川君が、その好きな人と付き合い始めたらどうする?」
胸が痛んだ。
想像したくない。
「それでも毎週行く?」
答えられない。
「その人の恋愛相談とかされたら?」
もっと嫌だ。
「カノン、その人の恋、応援するって言ったんでしょ?」
「……うん」
「できる?」
「…………」
できない。
たぶん。
昨日までなら、できると思っていた。
でも、それは私が自分の気持ちを知らなかったからだ。
「千佳」
「ん?」
「わたし、どうしたらいいんだろう」
千佳はすぐには答えなかった。
しばらく考えてから、珍しく静かな声で言った。
「それ、私が決めることじゃないよ」
「……うん」
「でも、今までと同じは無理なんじゃない?」
その言葉だけは、すんなり胸に入ってきた。
今までと同じ。
それが、もうできない。
早川君が変わったわけではない。
互助関係が変わったわけでもない。
変わったのは――。
私だ。
昨日、半分の月を見てしまった。
自分の気持ちに気づいてしまった。
もう、知らなかったころには戻れない。
「……互助関係、やめた方がいいのかな」
口にした途端、胸が締めつけられた。
千佳が私を見る。
「カノンは、やめたいの?」
「やめたくない」
すぐに答えていた。
自分でも驚くくらい早かった。
「でも……続けるのも辛い」
「そっか」
千佳はそれ以上、何も言わなかった。
それがありがたかった。
しばらくして。
「よし」
突然、千佳が立ち上がった。
嫌な予感がする。
「明日、大学行く」
「誰が?」
「私が」
「なんで?」
「オオカミを確認する」
「確認?」
「なぜ羊を襲わなかったのか、本人に聞く」
「絶対やめて!」
「冗談よ」
絶対に半分くらい本気だった。
「でも、早川君は見たい」
「観光地じゃないよ」
「ここまで来たんだから、それくらいいいでしょ」
「鹿児島から何しに来たの?」
「親友の救助」
千佳は胸を張った。
「ついでにオオカミの生態調査」
やっぱりそっちが本命じゃないだろうか。