むかいぬこ(@mukainuko) / 第87話

第2話 やばい! お金がない

「……千八百円?」 週明けの月曜日。 大学近くの銀行ATMで残高を確認した紗栄子は、画面に表示された数字を前に固まっていた。 もう一度見る。 千八百円。 見間違いではない。 給料日まで、あと一週間。 「やばい。お金ない……」 先週、梨花と買い物へ行った。 買い物だけのつもりだったのに居酒屋へ行き、そのままカラオケにも行った。ついでに化粧品も買ったし、春物の服だって一着だけのつもりが二着になった。 一つ一つは、それほど大きな出費ではなかったはずだ。 なのに、全部合わせると見事に財布を破壊している。 東京って、息をしているだけでお金が減る。 もちろん、東京のせいではない。それくらいは紗栄子にも分かっている。 財布の中には、二千円と小銭が少し。 これで一週間。 「……いける?」 誰に聞いたわけでもないが、当然返事はない。 とりあえず大学へ向かう途中のコンビニへ入り、菓子パンを手に取った。 一個で我慢するか。 いや、朝も食べていない。 しばらく悩んだ末、結局二つ買った。 夕食は、たしか部屋にパスタが残っていたはずだ。最悪、醤油でもかければ食べられる。 「一週間かあ……」 考えただけで気が遠くなる。 昼休み。 学食へ行けば、目の前に並んだ定食の誘惑に負ける気がしたので、紗栄子は校舎脇のベンチでコンビニのパンをかじっていた。 百円ちょっとの菓子パンが、今日は妙にありがたい。 「あ、紗栄子いたいた」 聞き覚えのある声に顔を上げる。 よりによって、梨花だった。 「こんなところで何してんの?」 「見れば分かるでしょ。お昼」 「それだけ?」 梨花が紗栄子の手元を覗き込む。 菓子パンと水。 「……もしかして、金欠?」 「ちょっと今月ピンチなの」 笑ってごまかしたものの、梨花はニヤニヤしたままだ。 「貸してあげようか?」 「いいよ。来週にはバイト代入るし」 「トイチで」 「いらない!」 「あはは、冗談だって。マジで貸すよ?」 「だから、いいって」 友達同士でお金の貸し借りをするのは嫌だった。 それに――。 梨花に借りるのは、なんとなく悔しい。 「紗栄子もさ、そんな地味なバイトやめて、パパ活やればいいのに」 「またそれ?」 「だって本当に楽だよ? 一緒にご飯食べるだけでもお小遣いもらえるんだから」 「私はいい」 「紗栄子なら絶対稼げるって。私より美人だし」 「それはどうかな」 そこだけは少し嬉しかった。 梨花はミスコン常連の美人だ。 そんな梨花から「私より美人」と言われれば、悪い気はしない。 ただし、パパ活をするかどうかは別の話だ。 パパ活と言えば聞こえはいいが、梨花は見知らぬ年上の男と会い、食事をしてお金をもらっている。それだけでは済まないこともあるらしい。 本人が納得してやっていることだから、紗栄子が口を挟む筋合いではない。 そう思ってはいる。 思ってはいるのだけれど――。 (私には無理だな……) 「わたしは、梨花みたいにトークが上手じゃないし。それに、知らない男の人と会うのは怖いよ」 何気なく答えたつもりだった。 けれど、梨花の表情が少し変わった。 「わたしさ、紗栄子のこと好きだし、大切な女友達だよ」 「……急に何?」 「だからハッキリ言うけど、たまに私のやってることに否定的じゃない?」 図星だった。 紗栄子は食べかけのパンに目を落とした。 梨花は、東京へ出てきて初めてできた女友達だった。 高校までの紗栄子は、勉強もそこそこできたし、容姿についても周囲から褒められることが多かった。男子にはよく声をかけられた。 その一方で、何でも話せるような女友達がいたかと聞かれれば、一人も思い浮かばない。 別に嫌われていたわけではないと思う。 たぶん。 梨花も似たようなものだったらしい。 だからなのか、大学で知り合ってから二人が仲良くなるまで、それほど時間はかからなかった。 「それは……まあ、そうなるよ。梨花のやってることって、大っぴらに人に言えることじゃないし……」 「だけど、仕方ないじゃない。私だって好きでやってるわけじゃないし」 梨花は少しだけ口を尖らせた。 「東京で一人暮らしして、服も欲しいし、友達とも遊びたい。大学生だからって、何でも親に出してもらえるわけじゃないし」 「それは分かるけど……」 「惨めな生活するくらいなら、上京しないよ。地元の大学に通ってた方がずっと楽だったもん」 言い返そうとして、紗栄子は黙った。 梨花のやっていることを肯定する気にはなれない。 でも、言っていることがまったく分からないわけでもなかった。 むしろ、分かってしまうから困る。 ――惨めな生活をするくらいなら、上京しない。 昨日、自分だって似たようなことを考えていた。 田舎にいた頃と同じように、学校と家を往復するだけの生活をするために東京へ出てきたわけではない。 服も欲しい。 友達とも遊びたい。 東京でしかできないことだって、たくさんやってみたい。 その結果が、残高千八百円なのだけれど。 手に持っている百円ちょっとの菓子パンが、嫌になるくらい現実を教えてくれている。 「……この話、やめよう。余計にお腹すいてきた」 「紗栄子が言い出したんじゃないじゃん」 「そうだっけ?」 「そうだよ」 梨花が吹き出した。 つられて紗栄子も笑う。 喧嘩をしたいわけではない。 お互い、それくらいは分かっている。 「じゃあ今週は遊べないね」 「うん。給料日まで誘わないで」 「分かった。じゃあ明日誘う」 「聞いてた?」 「奢ってあげるって」 「それはもっと嫌!」 また二人で笑った。 午後の講義が始まってからも、梨花の言葉が妙に頭に残った。 ――惨めな生活するくらいなら、上京しないよ。 自分は、何のために東京まで出てきたのだろう。 そんな大げさなことを考えるつもりはなかったのに、千八百円しかない通帳残高を思い出すと、妙に胸に引っかかった。 学校が終わると、紗栄子はまっすぐアパートへ帰った。 今日はバイトもない。 遊びに行くお金もない。 ついでに、お腹も空いている。 冷蔵庫を開けてみる。 麦茶。 調味料。 以上。 「……最悪」 まあ、パスタがある。 たしか昨日、まだ一食分くらい残っていた。 棚を開ける。 「……あれ?」 ない。 念のため隣の棚も開けてみる。 やっぱりない。 「パスタは?」 しばらく考えてから、昨日の夜、自分で食べたことを思い出した。 「…………」 人間、お腹が空くと記憶まで都合よく書き換えるらしい。 仕方なくベッドへ寝転がり、スマホを手に取る。 動画を見る気にもならない。 通販サイトなんてもってのほかだ。 画面を意味もなく眺めているうちに、また昼間の梨花の言葉が蘇ってきた。 ――惨めな生活するくらいなら、上京しないよ。 「惨め、か……」 自分だって、こんな生活をするために東京へ来たわけではない。 でも、だからといって梨花のような稼ぎ方ができるとも思えない。 何か、もっと普通のバイトで。 できれば短期間で。 できれば、かなり稼げるもの。 そんな都合のいい話が――。 そこまで考えたところで、机の上に置かれた名刺が目に入った。 『芸能プロダクション 立花企画』 「……あ」 昨日、渋谷で声をかけてきたオジサン。 ――専属でなくても、バイト感覚で構いませんので。 ――バイト代は、はずみますから。 怪しい。 どう考えても怪しい。 昨日、自分でそう判断したはずだ。 それなのに、紗栄子はベッドから起き上がると、名刺を手に取っていた。 「……電話するだけなら、大丈夫だよね」 話を聞くだけ。 変だと思ったら、その場で断ればいい。 そもそも電話なのだから、危ないと思ったら切ってしまえばいい。 名刺に書かれた番号を、スマホへ一つずつ入力していく。 最後の一桁。 そこで、指が止まった。 「…………」 やっぱり、やめようかな。 こんなに迷っている時点で、怪しいと思っている証拠じゃないか。 スマホを置こうとした。 そのはずだった。 なのに、指は通話ボタンを押していた。 呼び出し音が、やけに大きく聞こえる。 手のひらに、じわりと汗が滲んできた。 今ならまだ間に合う。 切ろう。 そう思った瞬間――。 『はい、立花です』 「あ……」 繋がってしまった。

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