むかいぬこ(@mukainuko) / 第120話

第35話 言わないと伝わらない

車は八王子の街を抜け、少しずつ山の方へ向かっていった。 建物が減っていく。 代わりに、窓の外を流れる緑が増えていく。 「なんか、東京じゃないみたい」 「まだ東京だよ」 「それは分かってるけど」 さっきまで駅前を走っていたのに、いつの間にか景色がまるで違っている。 道の両側には山が迫り、民家も少なくなってきた。 窓を少し開けると、入ってくる風まで違う気がする。 「なんだか、田舎に帰ったみたい」 「花音ちゃんの実家って、そんなに田舎なの?」 「そんなにって何?」 「あ、いや」 「今、馬鹿にしたでしょ」 「してない、してない」 笑いながら弁岳君がハンドルを切る。 その手つきは慣れていた。 合コンで初めて会ったときは、真面目そうな男の子だと思った。 眼鏡をかけて、きっちり髪を分けて。 いかにも勉強ができそうな。 それが今日は。 車を運転して、山道をどんどん上っている。 「弁岳君って、車好きなんだね」 「好きだよ。バイクも乗るし」 「バイクも?」 「うん」 「自転車も乗るんだよね?」 「ロードバイクね」 「タイヤがついてれば何でもいいの?」 弁岳君が吹き出した。 「花音ちゃん、たまにすごいこと言うね」 「え?」 「いや。面白い」 褒められたのだろうか。 分からない。 やがて、弁岳君がセンターコンソールのスイッチを操作した。 「なに?」 「見てて」 機械の動く音がする。 頭の上にあった屋根が持ち上がった。 「え?」 そのまま後ろへ。 「ええっ?」 空が見えた。 「屋根がなくなった!」 「オープンカーだからね」 「これ、そういう車なの?」 「今さら?」 知らなかった。 急に広くなった頭上から、風が入り込んでくる。 「わあ……」 髪が風に揺れる。 空が近い。 両側には山。 木々の間から差し込む光が、次々と車内を横切っていく。 「すごい!」 「気持ちいいでしょ?」 「うん!」 さっきまでとはまるで違う。 カーブを曲がるたびに身体が左右へ揺れる。 「うわっ」 また曲がる。 「うわっ」 弁岳君が笑う。 「花音ちゃん、さっきからそればっかり」 「だって、すごいんだもん」 楽しい。 これは素直に、楽しい。 * しばらく山道を走り、車は広い駐車場へ入った。 「着いた」 「ここ?」 「都民の森」 車を降りる。 さっきまで座っていたせいか、身体を伸ばすだけで気持ちがいい。 周囲は山ばかり。 空気も少し涼しい。 「東京にもこんなところがあるんだね」 「ここ、標高千メートルくらいあるよ」 「そんなに?」 「この奥に滝があるから、行ってみよう」 「うん」 弁岳君について遊歩道を歩く。 思っていたより坂がある。 「少し歩くって、これ?」 「まだ大したことないよ」 「聞いてない」 「言ったら来なかった?」 「お弁当作らなかった」 「それは困る」 「そっち?」 二人で笑った。 しばらく歩くと、水の音が聞こえてきた。 やがて木々の向こうに滝が見える。 「わあ……」 思わず声が出た。 すぐ近くを、水が流れ落ちている。 「すごい」 「秋はもっと綺麗だよ。紅葉するから」 「へえ」 「冬は凍ることもある」 「ここ、よく来るの?」 「たまに。バイクで」 またバイク。 「本当に乗り物好きなんだね」 そう言うと。 弁岳君が少し意外そうな顔をした。 「なに?」 「いや」 「変なこと言った?」 「逆」 「逆?」 弁岳君は少し考えてから言った。 「車とかバイクの話するとさ、親に買ってもらったんでしょ、とか言われることが結構あるんだ」 「ああ」 それは。 まあ。 この車を見ると、そう思う人もいるかもしれない。 「実際そうなんだけどね」 「そうなの?」 「うん」 あっさり認めた。 「じゃあ、いいじゃん」 「え?」 「買ってもらえるなら」 今度は弁岳君が黙った。 「……わたし、何か変なこと言った?」 「いや」 笑った。 「やっぱり、花音ちゃん面白いね」 「だから、それ褒めてる?」 「褒めてるよ」 どうにも、この人と話していると調子が狂う。 でも。 嫌な感じはしなかった。 * 駐車場へ戻ったころには、ちょうどお昼だった。 空いているテーブルを見つけ、私は鞄から弁当箱を取り出した。 「お待たせしました」 蓋を開ける。 「おお」 弁岳君が覗き込む。 「これ、全部花音ちゃんが作ったの?」 「うん」 「朝から?」 「そうだよ」 「すごいな」 本当に感心したように言う。 「いただきます」 「どうぞ」 弁岳君は最初に卵焼きを取った。 食べる。 「おいしい」 「本当?」 「うん」 次は唐揚げ。 「これもおいしい」 「よかった」 素直に嬉しい。 自分の作ったものを、おいしいと言って食べてもらえる。 嬉しくないはずがない。 「花音ちゃん、料理上手なんだね」 「一人暮らし長いから」 「僕、女の子が作った弁当って初めてかも」 「そうなの?」 「うちの大学、あんまりこういうことする子いないんだよね」 「お嬢様ばっかり?」 「まあ、そういう子は多いかな」 「へえ」 弁岳君が、また唐揚げを食べる。 本当においしそうに。 それを見ていたら。 ふと。 別の光景が浮かんだ。 早川君。 私が作った料理を食べて。 同じように、おいしいと言ってくれた。 「…………」 「花音ちゃん?」 「え?」 「どうしたの?」 「ううん。なんでもない」 私は自分の弁当に箸を伸ばした。 おかしいな。 弁岳君は喜んでくれている。 私も嬉しい。 それなのに。 同じじゃない。 何が違うのだろう。 考えるまでもない。 違うのは、弁当じゃない。 食べている人だ。 「……そっか」 「ん?」 「なんでもない」 「今日それ多くない?」 「気にしないで」 私は卵焼きを口に入れた。 自分で作ったのだから、当然いつもの味だった。 * 午後も、弁岳君はいろいろな場所へ連れていってくれた。 山を下り、湖の近くを走った。 途中で車を停めて景色を眺めたり、休憩したり。 会話が途切れても、不思議と気まずくない。 弁岳君は自分のことも話した。 聖蹟桜ヶ丘のこと。 大学のこと。 ロードバイクのこと。 映画のこと。 私も話した。 大学のこと。 小説のこと。 上京したばかりのころのこと。 官能小説のことは、さすがに言わなかった。 「花音ちゃんって、小説家になりたいんだよね」 「なれたらね」 「なるんじゃない?」 「簡単に言うなあ」 「だって、なりたいんでしょ?」 「そうだけど」 「じゃあ、目指せばいい」 あっさりしている。 でも。 嫌いじゃない。 この人はたぶん、自分自身もそうやって生きているのだ。 やりたいことがあれば、やる。 行きたいところがあれば、行く。 会いたい人がいれば――。 「どうしたの?」 「ううん」 まただ。 「花音ちゃん、今日たまに遠く行くよね」 「遠く?」 「急に考え込む」 「……そうかな」 「うん」 弁岳君はそれ以上聞かなかった。 ただ。 少しだけ。 私の顔を見ていた。 * 夕食を途中の店で済ませ、八王子へ戻ってきたころには、もう七時を過ぎていた。 朝からずっと乗っていた車にも、すっかり慣れた。 車内には静かにジャズが流れている。 外は暗い。 対向車のヘッドライトが、時々弁岳君の横顔を照らした。 「疲れた?」 弁岳君が聞く。 「ううん。弁岳君こそ。ずっと運転してたでしょ」 「僕は好きだから平気」 「すごいね」 「何が?」 「朝からずっと運転して、いろんなところ連れていってくれて」 「楽しくなかった?」 「楽しかったよ」 これは、迷わず言えた。 「すごく」 「よかった」 弁岳君が笑う。 「わたし、こういうドライブ初めてだった」 「じゃあ、また行こう」 「うん」 「今度は海とか」 「あ、行きたい!」 言ってから。 あれ? と思った。 また約束している。 この前もそうだった。 弁岳君と話していると、いつの間にか話が決まっている。 強引ではない。 嫌なら断れる。 なのに、自然に「うん」と言ってしまう。 「バイクも乗ってみる?」 「乗ってみたい」 また言った。 「じゃあ、それも今度」 「うん」 また。 私は窓の外を見た。 自分でも少し可笑しくなってくる。 「なに笑ってるの?」 「弁岳君って、誘うの上手だなと思って」 「そう?」 「気づくと次の約束してる」 「ああ」 弁岳君は少し笑った。 「それは、また花音ちゃんに会いたいから」 「…………」 さらっと言う。 本当に。 こういうところだ。 「そういうこと、普通に言えるんだね」 「言わないと伝わらないでしょ?」 「……そうだけど」 胸が少しだけ騒いだ。 でも。 それは。 早川君といるときのものとは、違った。 「この辺で合ってる?」 「あ、うん。次を右」 車は見慣れた道へ入っていく。 やがて、私のアパートが見えた。 「ここ」 車が停まる。 エンジンの音が消えると、急に静かになった。 「今日はありがとう」 「こちらこそ。弁当、ごちそうさま」 「お粗末様でした」 口にして。 また。 思い出した。 同じ言葉を交わした人。 「…………」 「花音ちゃん」 「ん?」 「今日、楽しかった?」 「うん」 今度も迷わなかった。 「本当に楽しかった」 「そっか」 弁岳君は、それ以上何も聞かなかった。 「じゃあ、また連絡する」 「うん」 ドアを開ける。 「おやすみ、花音ちゃん」 「おやすみ、弁岳君」 車を降りた。 ドアを閉めて、少し離れる。 赤い車がゆっくり走り出した。 角を曲がり、見えなくなるまで見送る。 「…………」 楽しかった。 朝から夜まで。 車に乗って、山へ行って。 お弁当を食べて。 たくさん話して。 次の約束までした。 弁岳君は優しい。 話しやすい。 私のことを、たぶん好意的に見てくれている。 それも分かる。 今日一日で、前よりずっと好きになった。 でも。 部屋へ向かおうとして。 足が止まった。 スマホを取り出す。 画面を見る。 誰からもメッセージは来ていない。 当たり前だ。 私はスマホを鞄へ戻した。 今日。 何度、早川君のことを考えただろう。 お弁当を食べているとき。 小説の話をしたとき。 弁岳君に「また会いたい」と言われたとき。 楽しくなかったわけじゃない。 むしろ、楽しかった。 だから。 余計に分からない。 こんなに楽しかったのに。 どうして私は――。 「……ただいま」 誰もいない部屋のドアを開けた。 返事はなかった。
読み込み中…