むかいぬこ(@mukainuko) / 第117話
第32話 唐揚げが……ない
金曜日。
朝から、なんとなく落ち着かなかった。
講義を受けている間も、ライティングの仕事をしている間も、ふとした拍子に夜のことを思い出す。
今日は文藝サークルの親睦会がある。
別に、珍しいことではない。
サークルの集まりなのだから、私が参加して、早川君も参加する。
ただそれだけ。
なのに。
自分の気持ちに気づく前なら、こんなことをいちいち考えたりしなかった。
互助関係を終わりにしたのは私だ。
早川君も納得してくれた。
だから、普通にすればいい。
普通に。
その「普通」が、よく分からなくなっているのだけれど。
*
親睦会の会場は、先週下見に来た店だった。
あのときは美鈴と早川君と、三人だった。
同じ店なのに、今日はずいぶん騒がしい。
長いテーブルを囲んで、文藝サークルのメンバーが十数人。
普段の活動ではあまり顔を合わせない人もいる。
私は美鈴の近くに座った。
そして。
少し離れたところに、早川君がいた。
目が合った。
「……あ」
向こうが先に軽く手を上げる。
私も同じように返した。
これだけ。
これだけなら大丈夫。
やがて飲み物が行き渡り、三上先輩の乾杯で親睦会が始まった。
しばらくすると席も崩れ始め、それぞれ好きな相手と話し始める。
私も何人かと話した。
小説のこと。
講義のこと。
サークルのこと。
そして。
「綾瀬さん」
聞き慣れた声に振り向く。
早川君だった。
「……うん」
普通。
普通に。
「小説、どう?」
いきなりそれだった。
少し笑ってしまった。
「なに?」
「ううん。早川君らしいなって思って」
「そう?」
「うん」
少しだけ、緊張がほどけた。
こうして話してみれば、何も変わっていない。
……いや。
変わったのは、私の方だけなのかもしれない。
「書いてるよ」
「そっか」
「それでね、すごくいいアイデアをもらったの」
「アイデア?」
「うん」
電研のことを話そうとして、少し迷った。
最弱勇者マリリンの説明を、どこからすればいいのだろう。
「ちょっと変わった人たちからなんだけど」
「変わった人?」
「年下の男の子や、わたしの方を向いて話してくれない先輩」
早川君の表情が、ほんの少し動いた。
気がした。
「大学の?」
「うん。電研っていうサークルの人たち。図書館のパソコンが使えないから、美鈴に紹介してもらったの」
「ああ、パソコン」
早川君が頷いた。
「そうか。困ってないならよかった」
「うん」
その言葉が、少しだけ胸に残った。
それから私は、流留君から聞いた話を簡単に説明した。
読者が登場人物に何を感じるのか。
好きでも、嫌いでも。
何かしらの感情を持ってもらわなければ、どれだけ話を作り込んでも届かないんじゃないか。
「なるほど」
早川君は真面目に聞いてくれた。
以前と同じように。
「面白い考え方だね」
「でしょ?」
「うん。僕はそういう方向から考えたことなかった」
その言葉が嬉しかった。
早川君から教えてもらったことは、たくさんある。
でも。
早川君が知らないものを、私が持って帰ってくる。
それをこうして話す。
なんだか少しだけ、自分で歩けたような気がした。
「今度、書けたところまで――」
言いかけて、止まった。
読んでもらおうか。
そう続けそうになった。
もう、互助関係は終わったのだ。
「……ううん。なんでもない」
「そっか」
早川君も、それ以上は聞かなかった。
ちょっとだけ。
寂しかった。
*
開始から三十分ほど経ったころ。
「ごめーん、遅れた!」
聞き覚えのある声がした。
入り口を見る。
竹下先輩だった。
「お疲れさまです」
「竹下さん、こっち空いてますよ」
「ありがと」
何人かと挨拶を交わしながら、竹下先輩がこちらへ歩いてくる。
そして。
空いている席を見つけた。
早川君の隣だった。
「あ、ここいい?」
「どうぞ」
早川君が答える。
私は。
竹下先輩のお尻が椅子に着くより先に、立ち上がった。
「カノン?」
美鈴が不思議そうに私を見る。
「ちょっと、向こう行ってくる」
「うん」
別に逃げたわけではない。
ちょうど向こうの席の人とも話そうと思っていた。
本当に。
たまたま。
移動した先には、料理の大皿があった。
唐揚げが残っている。
私は一つ取った。
食べる。
もう一つ。
食べる。
少し離れたところに、早川君と竹下先輩がいる。
見ていない。
私は見ていない。
唐揚げを食べているだけだ。
ちら。
竹下先輩が何か言っている。
早川君が困ったような顔をした。
竹下先輩がさらに何か言う。
今度は早川君が目を逸らした。
なんだろう。
怒られている?
竹下先輩の口調までは聞こえない。
でも、笑いながら世間話をしているようには見えなかった。
ちら。
また見てしまった。
「…………」
唐揚げ。
私は三つ目に手を伸ばした。
何を話しているんだろう。
先週、この店で美鈴に「好きな人はいるの?」と聞かれたとき、早川君はいると答えた。
美鈴ではなかった。
そして、竹下先輩の名前が出たときも否定した。
でも。
本当に?
二人の距離は近い。
高校も同じ。
今でも二人で会うことがある。
それに――。
「食べるねえ」
「ふぁい?」
声をかけられて、口に入れた唐揚げを慌てて飲み込んだ。
「ご、ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
竹下先輩だった。
いつの間に。
「隣、いい?」
「あ、はい」
竹下先輩が私の隣に座る。
近くで見ると、やっぱり綺麗な人だ。
服も髪も、何もかも自然に整っている。
私とは違う。
「あんまりちゃんと喋ったことなかったよね。綾瀬さん」
「そうですね」
「文学部の二年だよね?」
「はい」
「小説書いてるんでしょ?」
「え?」
思わず竹下先輩を見る。
「どうして知ってるんですか?」
「文剛から聞いた」
文剛。
一瞬、誰のことか分からなかった。
早川文剛。
早川君のことだ。
「……文剛?」
「うん」
呼び捨て。
胸の中で何かが引っかかった。
「あいつの部屋で書いてたんでしょ?」
今度は唐揚げが喉に詰まりそうになった。
「な、なんでそれまで知ってるんですか?」
竹下先輩が笑う。
「聞いたから」
「早川君から?」
「うん」
何を。
どこまで。
早川君は、この人に何を話しているのだろう。
「毎週行ってたんだって?」
「毎週というか……土曜日に……」
「それを毎週って言うんじゃない?」
「そうですね……」
何を答えているんだ、私は。
竹下先輩は面白そうに笑っている。
嫌な感じではない。
私をからかっているようでもない。
ただ。
近い。
早川君との距離が。
私の知らないところで、ずっと近い。
「あの」
「ん?」
聞きたい。
竹下先輩と早川君は、どういう関係なんですか。
高校の先輩と後輩。
それだけ?
本当に?
「あの、竹下先輩って――」
「はーい! ちゅうもーく!」
大きな声が店内に響いた。
「…………」
今?
みんなの会話が止まる。
声を上げた先輩が、グラスを持って立っていた。
「えー、本日の親睦会にお集まりの皆さん。ここで一つ、めでたいご報告がありまーす」
何だろう。
「本人たちから言うのも恥ずかしいそうなので、私から発表しまーす」
周囲から「なになに?」と声が上がる。
私の隣で。
竹下先輩が、片手で顔を覆った。
「ちょっと、やめてよ……」
「えー、このたび!」
嫌な予感ではない。
でも。
何かが来る。
「我らが三上先輩と――」
え?
「竹下さんが、お付き合いすることになりましたー!」
一瞬の静寂。
そのあと。
「えええええっ!」
歓声が上がった。
拍手。
口笛。
誰かがテーブルを叩いている。
私は。
隣に座っている竹下先輩を見た。
竹下先輩が少し照れたように笑った。
「竹下ー! こっち来い!」
上座から呼ばれる。
「はいはい。もう……」
竹下先輩が立ち上がった。
「あ、綾瀬さん」
「はい」
「またあとで話そ」
「……はい」
行ってしまった。
私はその背中を見送った。
三上先輩と。
竹下先輩が。
付き合う。
というのは本当だった。
竹下先輩は、早川君の好きな人ではない。
やっぱり違った。
じゃあ。
さっきの二人は何を話していたのだろう。
どうして早川君は、竹下先輩にあんな顔をしていたのだろう。
どうして竹下先輩は、私が小説を書いていることを知っているのだろう。
どうして。
私が毎週、早川君の部屋へ行っていたことまで知っているのだろう。
そして。
どうして早川君のことを――。
文剛。
そう呼ぶのだろう。
「…………」
私は大皿に手を伸ばした。
唐揚げは。
もうなかった。