ジ・エモン / 第26話

26 パーマー・エルドリッチ(2)

 アパート。  十九時間後。  どうにか事態は終わった。  ベッドからめざめて、ゲンコは目をこすった。おそろしい眠りだった。  アパートに帰ってこれたのは、夢に思う。左手で反対の肩をこする。幻覚さえおぼえない、泥のような眠り。習性で、めざめて一番に時間を確認した。それで、やや後悔した。 (まだ七時……)  三時間ほど眠っただろうか。 (目、醒めちゃったよ)  体はすでにベッドから出ている。着替えをしながら、自分の体にぶつくさ文句を言う。  玄関のドアがノックされた。ゲンコは下着を替えながら、二度めのノックに待つように返事をした。おどろいたことに、メェスのようだった。  ようするに後始末のほうが時間を割くもので、裏方のメェス、というと語弊があるがゲンコとは、役割のちがう彼女にはまだ仕事が残っている。はずだ。  はずだ、というのは細かい仕事内容まではゲンコも把握していない。この場合はこのていどの時間がだいたいかかるものだというくらいの認識だ。 (しゃあない)  妥協をつぶやいて、ゲンコは玄関に出た。 メェスは、やあ、とビニール袋をゆらした。 「起きたばっかりでしょ。朝ごはん買ってきた」  メェスはあがると、テーブルにコンビニから買ってきたらしい商品をならべた。  てきぱきとした身ぶりで、ハシと惣菜、コンビニ弁当をならべる。日の丸が、パックを開ける音とともに香った。 (コンビニかあ)  ゲンコは内心言ったが、口には出さない。  メェスは料理ができる女である。一度、ふるまったのを食べたことがある。 「大丈夫なんですか、いま」  ゲンコはずれていると思いつつ、言った。 「休憩よ。二時間もしたらもどるから。シャワー浴びるんなら、どうぞ」 「来客中にやりませんよ」 「そう? べつにいいけど、私鼻もすごい利くよ?」 「わかりました」  答えると、ゲンコはシャワーを浴びにいった。べつに特段過敏というわけではなく、メェスは五感がするどく、本当にささいな音でも聞き分けるし、夜目もつよいという特殊技能がある。  このため現場の駆除にあたる人間のサポートとして、怪物の直近まで往還したり作業員にぴたりとついていたりする。 (人の寝起きの音まで聞き分けるんだよな)  いまの場合、ケルスの部屋にでもいて、ゲンコがそろそろ起きるらしいのを聞きとったのだろう。ゲンコがあてられている部屋の配置としては、アパートの角部屋であり、隣が空き部屋、さらに隣が入居者、その隣がケルスの部屋というぐあいになっている。 (メェスならそのくらい聞きとれるからな)  七分ですませて脱衣所に立つ。  体を拭いて、手早く服を身につけ、髪を乾かしてととのえる。鏡の前でやりながら、ゲンコはぼんやりとした。とはいえ鏡は好きではない。どちらかいうと、必要がなければのぞくのは避けたかった。  忌避や嫌悪、といった感情ではなく、なんの必要もなく見つめていると嫌なことを想像するからだ。  使ったタオルを洗濯物にわけて、ゲンコは脱衣所を出た。すっきりした。 『――男は、知人とのトラブルから猟銃で男性を撃ち、現場から逃走――』  メェスがテレビをつけたらしく、音声が聞こえてくる。なんやかやしているうちに、朝のニュースがはじまる時間になっている。  ゲンコが出ていくとシャケ弁当をメェスが食べているところだ。朝飯を食べにきたのだろうか、と思いつつテーブルの対面に座る。   ゲンコのぶん、ということで置かれた弁当にいただきます、と断って手をつける。こっちはからあげ弁当、というやつだった。  ほかほかとあったまった、とまでは言えないが電子レンジっぽい熱感をかんじる。  朝からからあげというのはどうかだが、ゲンコも空腹である。肉を口に入れると、もっもっとした歯ごたえと、油と、もうしわけていどの肉汁が感じられる。 (おいしいな)  んく、と向かいで鮭を飲みこんだメェスが、口から手をはなす。 「時間なくてさあ。ま、ゲンコも好きそうだから、いいかなと」 「好きではないですが、おなかはふくれますね」 「イギリス人だから大丈夫大丈夫」 「腹立つわ」  ゲンコが眉をひそめて言っているあいだに、テレビのニュースが続きを言う。  地方の情報である。ゲンコとメェスが、自然と画面に目をやっている。 『――の大型輸送機二機が、故障し一機が、空中分解、一機は付近に墜落したもので――』 (また航空機事故かあ)  ゲンコは思いつつ、聞き流した。短期間に同じ理由でというのも不自然かつ理不尽、とは思うが。  そのあたりはうまくやるのだろう。 「無茶すんね」  ごちるように言い、メェスはすでに食事にもどっている。  前回の大規模な出現では、訓練中の戦闘機が上空でトラブル、墜落の危険があるため住民を避難、という流れだった。  名目や、あとの情報であって現地ではもっと派手にやったわけだが、と、ゲンコは白米を口に運びつつ思った。 「そうだ、これも買ってきたから後で食べな?」  メェスが、言いつつビニール袋を漁った。なにかの容器のようなかたちの、合成ポリっぽいものをとりだして、置く。  ゲンコはまじまじと見ながら、なにげにそれを手にとった。ポップな商品名と、細かい日本語で書かれた食品表示に、調理法が書かれている。カップ麺だろう。  これが日本のカップラーメン。 「おお……」  ゲンコは目を輝かせた。それはそれとして、メェスには聞きたいこともある。 「負傷者はどうなりましたか」 「負傷者は十七名、重傷二名、軽傷十五名」  そこそこ食事をかたづけてから、話をはじめる。  現時点で死者はなし。 「街の被害とかたづけ、後始末が今後ちょっと尾を引きそう」 「もしかして、フロムナインにバイクを貸しました?」 「ああ、貸したけど。ほら、移動の足が不足していたからさ。貸してたのそのまま使ったって」  ゲンコはあきれた目をした。無理はない。 「なんでバイク持ってきたんです。日本じゃ運転できないでしょ」 「まあまあ、ほらさ。仕事に役立ったんだからいいじゃないの」 「貸してたって、前にこっちに来てから?」 「そうよ。移動の足が不便そうだったから。彼女、忙しいらしくて市内あちこち行ってたからさ」 「彼女って」  言いかけると、メェスはひねくれてそうな目を宙にやった。 「そうそう。自在に見た目は変えられるんだっけ。私の見てる前でもビジネスマンとか、女子学生とか変わってた。あれ不思議よね。科学技術だっていうんだから」 「あれでもダウンサイジングで、到達可能な技術になってるらしいですよ」 「ま、パーソナルは女性よ。だから彼女彼女」  メェスは言って、会話の途中なのに食事をはじめた。奔放な女だ。口もとをおさえて、飲みくだして言う。 「ゲンコは苦手なんだっけね」 「……。苦手ですが、べつに嫌ってるわけでもないし」 「いいんじゃないの。なかよくする相手ってわけでもないし」  自分のペースでしゃべって、メェスはもくもくとあとは食事をつづけた。口をひらく気はない、という様相だ。  つけものをかじりながら、ゲンコはまず食事をかたづけることを考えた。  なんにせよ空腹には勝てない。惣菜のポテトサラダとすっぱい和え物を見て、和え物のほうに手をのばす。  テレビの音を聞きつつ、あらかた食べ終わる。お茶をのんで、口の中のあぶらっぽさを流す。 「ケラーさんは?」 「戻ってないよ。彼女も無茶すんね。休ませないと」 「本当に」 「やっぱあれか。けが人でたこと気にしてる?」 「うん……そりゃ、あたりまえでしょう?」  答えると、メェスはミルクティーを飲みこんで、言ってくる。 「けが人がでたことに?」 「それと、仕事だったからの両方です」 「怪物を殺してやるっていうのは」 「ないけれど」 「そうだったほうのが、わかりやすくて若いのに」 「私に主体性がないってことですか」 「そんなのじゃないって」  メェスはかるい調子で言った。あとは続けず、鼻歌まじりにテーブルの上をかたづけはじめる。ゲンコは手伝った。 「それと、ゲルトヒーデル嬢まわりの話。ヨハンナの関与のほかに、フィストの動機も確認されるって話になってるわよ」 「フィストが」  フィスト。元グリニザドイツ支部で、独立して袂をわかった。 「ノーフェイス・エージェント……長いからルチャドールと、そこの関係だから最初(はな)から疑われていた話だけどね」 「フィストの資金源てどこから出ているんでしょう?」 「旧政権の隠し資産」 「それ悪口じゃないですか」 「あと、中南米の違法薬物栽培。あるいは傭兵派遣、スペイン政府の支援、イタリアマフィア……」 「まじめに」  ゲンコが言うと、メェスは笑った。 「まじめに語る内容じゃないじゃんよ。おっかしいな」 「それもそうか」 「グリニザとおたがいに泣きつき泣きつきしてるんじゃないの」  それ以外やりようないじゃん、とメェスは適当そうに言った。  たしかにひとつの話ではあった。フィストはなにか致命的な方針、主義のちがいでグリニザと袂をわかったものの、活動の継続には莫大な資金がかかる。  先述のとおり、元ドイツにおけるグリニザの支部組織であるフィストは、一九二〇年代半ばにグリニザから袂をわかつ形で離脱、独立した。  当時、隆盛な軍事国家であったドイツ国内におもねる形で造反したとして、その後の世界的な経緯もあり、非常にグリニザから嫌われている。  関係者も、上下問わず反目しあっている。  しかし、現在まで組織としての体裁を維持してきたのは疑問視されている。資金のやりくりのこともあるだろうが、グリニザと同様の業務を主目的にすえた以上、そのやることというのは勝手に世界各国の領域に入っていって外宇宙の神々の隠ぺいを目的として、現場作業をおこなうものだ。  いわばちょっとした墨家道(モヒズム)である。はてしない人脈と関係性の構築がないと実現しない。  それを、グリニザとバッティングしないようにおこなうというのは無理である。結局は、両者は対立しつつなんらかの取引で、たがいの強みを享受していたはずである。  というよりは、それを含みで離脱、独立したはずである。  と、そんな認識が現在のものとしてある。 (ビジネスと恋愛関係は性悪説(エンプリシスム)、日常のひとづきあいは性善説(イディア)っぽく……)  あくどいマリィ・ルレーンが、ゲンコにふきこんだ言葉だ。無駄この上ない。 (グリニザやらにおもだった主張や裏づけがあるとしたら、上位存在のやったみせしめのいくつかだけなんだから) 「う?」と、横からメェスが言った言葉に、ゲンコはうめいた。 「自炊すりゃいいのにって」 「あなたイギリス人って言ったわよね」  半眼になって、ゲンコは言った。料理が作れることは、すでにいつだかにメェスに言っている。  ただし、ゲンコが作れるのは少し特殊でコテコテな人の口に語られるようなイギリス料理である。母が得意にしていた料理で、作り方を教わりそれ以外、興味がないためレパートリーが増えない。 「練習しないの? 教えちゃるよ」 「興味ないなあ」 「無頓着ぅ」 「さっぱりやっていないわけじゃないわよ」  ケルスが今のように手料理をはさんでないと、三食ジャガイモばかり食っているが。  こほ、とゲンコは思いつつごまかした。 (私のシェパーズパイは絶品だって、母さんも太鼓判押したもの) 「本当に良いわね」などとにこにこしながら言ったりはまちがってもしなかった。 (その気になったらできる、なんてのはやらないってことなんだよな) 「食事に楽しみを見いだせない人間はいますよ。全体数は知りませんけどね。ま、公平になるにも才能って必要だと思いますから、無理に情報をつめこむものでもないですよ」 「そりゃ実際おいしいけどね、ゲンコのは」 「私、メェスさんに作ったことないですよ……」 「ケラーにおすそわけって持ってったのを、わけてもらって」 「そうですか」  ゲンコはそっけなく答えた。ただ、正直な話、料理についてほめられるのだけは弱い。 「くくく……」 「ちょっと……」  注意しようとすると、メェスは口もとを押さえつつ言った。 「ゲンコは、案外惚れっぽいのかもね」 「……」 「今度恋バナ聞かせてよ?」 「すあ」  ゲンコはへんな声を返した。あはは、とメェスはけらけら笑う。ふと携帯電話が鳴った。ゲンコの私用の方の携帯電話だった。  ゲンコは、ことわって電話をもった。アパートの外に出る。 「もしもし」 『やあ』  もしもし、と電話口のむこうで言ってくる。知らない番号だったので、素直にやや驚いて電話を、もちかえる。 「お疲れ様です」  マリィ・ルレーンだった。ただ、反射的に日本語らしい日本語が出てしまい、ややしくじった感になる。  ゲンコはちょっとカーディガンの襟もとをただすようにした。それもやりかけて、やめるようにする。 (またろくなことじゃなさそう)  かるい挨拶をすると、マリィ・ルレーンは、近況をたずねた。  ゲンコは気を直してそれを受けた。 「ええ。大事ないです」  現在の状況は、つつぬけであるようだ。  彼がへんな千里眼をもっているのは、いつものことだ。必要なことに精通していて、情報を聞いているのにその情報網がなんなのかは人に察知させない。  ゲンコ・オブライアンという人間の保証や引受をやるのも、必要なことのひとつと思っているふしがあることも、なんとなくは察せられる。 「はい。いえ」  現場のことにはふれず、アンプルの件を言ってくる。  ウェルフに知らさせず、フロムナインに直接移譲したことを詫びてくる。電話一つあれば、彼女……マリィ・ルレーンもかのアンドロイドにそういう呼称をつかった、に渡させることはわかったことと、このあとはしばらく、同様の渡し方をとること。 (したって、彼女もいそがしそうなもんだけど)  そもそも関係がよくわからない。  マリィ・ルレーン。マリィ。または、マリィ・ルレーン・マクダネール。品のいいスーツを着ているときがだいたい。  気遣いに満ちた紳士的な身のこなしと、男性的な魅力に満ちた口調、包容力と相手が望むものを提供する話術をもつ。  グリニザ本部に所属する男で、本部建物内に執務室といえる部屋をあたえられている。構えているのかもしれないが、そこでなにをしているのかはなぜか、だれも具体的に説明できない。が、だいたいの場において彼の名前を聞く。そのさまはイングランドの伝奇にある魔女じみている。  楢(オーク)の木のドアのむこうにある彼の部屋は、さながら小屋か工房といったところだろうか。魔女は、そこで呪いや怪しげな毒薬を作っている。 (実際の魔女はそんなものでもない)  ぽつぽつと小雨がふってきた。ゲンコはアパートの屋根の下からそれを見あげた。  なんとはなしに見た雲間から、黄金の光がもれている。天気雨というやつらしく、どことなく不安な気配がただよっていた。 「え?」  ゲンコは、電話からマリィ・ルレーンが言ったのに聞きかえした。意味がよくわからない、と思ったからだ。  黄金の雲間。  それを見たかどうかという。 「いいえ。まだ目にしていません」  ゲンコは答えた。  言うままだ。  マリィ・ルレーンの問いというのは、フィクションに登場する宣教師のように、なぞめいている。そして答えなければならない。  意味がもしわからなくともだ。 「はい」  本当に見ていない? と、再度問うてくるのに答える。あとは、聞いてくることはなかった。  そして、意味を考えてはならない。  これもマリィ・ルレーン本人に吹きこまれたことだ。 「はい。はい」  それならよかった、と意味不明なことを言いながら、マリィ・ルレーンはフロムナインの連絡先を言ってきた。  ゲンコはメモ書きに簡単に記した。電話の際は、メモとペン等を持ちこむくせがある。というより、仕事のやり方というか。 「のちほど連絡します。はい。わかりました。すぐに」  対応していると、マリィ・ルレーンが現場のようすについてふれてきた。 「はい。問題ありません」  いまはこちらからも説明できない、ウェルフの指示にしたがうように、と、言ってくる。   なにもわかっていないのではなかったのか、と、ゲンコは思ったが、質問はしない。  どうせ、必要にならなければ彼は言わない。そして彼にとっての必要というのは、ときにかぎりなく人間でありながら人間でない。  そのような、冷たいものだ。聞きながら、ゲンコはふと答えて言った。 (オート・モーフィスはこの街でなにをしているのですか?) 「マリィ・ルレーン。私がこの現場でできることはあるでしょうか」 『君は常どおりにしていればいいよ』  マリィ・ルレーンは、簡潔に答えてきた。  それから、ゲルトヒーデルやその友人とうまくやっているか、ウェルフとはどうか、とさりげなく聞いてくる。  ゲンコは簡潔に答えた。  やがて会話が終わり、電話を切った。 (ふう)  ゲンコは言って、すぐに覚えた番号にかけた。三回ほどコールすると相手が出る。 「お電話失礼します。フロムナイン?」 『もしもし』  フロムナインが、例の女性の声で答えた。 (アンドロイドなら、通信とかできそうだけれど)  愚にもつかないことを考える。  もっとも、ゲンコも実はそういう話は信じていない。言いながら、あるいは人間でない、という目では言葉に出さずに見ている。 (どうも悪感情が邪魔だな)  この感情の出どころは、わかっている。  きわめて未熟な思春期的なもの。  それと、フロムナインというのが人間のかたちをした人間らしいものである……らしいこと。まあ、本来の姿はちがうのだが。  つまり身体が、異物であること。  あとは、まだよくわからないものが微弱にあるような気がするが、無視していいものなので数えていない。 『では、私から連絡してもよろしいのですか』  フロムナインが言ってくる。ゲンコは答えて言った。 「はい。お願いします」 『あなたは冗談がわかりにくいのですね』 「なんですか?」 『そのようにします。以後よろしく。それと、よく眠ったほうがいいと思います』  フロムナインは通話を切った。ゲンコは、なんなんだ、と思いながらアパートの階段に目をやった。  学生か、素性の知れない人間が横に住んでいそうな簡易なアパートである。鬱々とした小雨が、勢いを増している。  もうしわけに設けられた雨よけの屋根のやや外、外付けのそっけない階段のはしっこにセーラー服の少女が座っている。  雨をよけるようすもない。ゆるめにしたひとつにたばねた三つ編み、しっとりしはじめた黒髪。つやもしわもない黒寄りの生地。  手すりによりかかって、ぼんやりと見やる。アルミめいたパイプが雨で冷たい。  見覚えはある。  ある、というより直感にちかい。 (あれって高校で見たやつだよな)  そう。例の幽霊か。  そんなに長くもない手足、やせた肌、高くもない肢体。  一瞬、遠目に見ただけだが、不思議とはっきりと見分けがつく。それがかえって不気味であり確信的でもある。 (幽霊だから、不気味で当然なんだけれど)  当然というか、自然というか。人間的というのか。  昨夜は寝れないどころか、日中の騒ぎにつづいての夜の出現で、現場つづきだった。  そのせいで脳が疲れているというのも、あるだろう。 (いまなら幻覚ってことで、ごまかせそうだ……)  思いこみとは反して、手は手すりにかけたまま、固まっている。雨粒がいくらか肌にはねていた。幽霊、と判断している人影が、こちらを急に見ないかどうか、ひどく気になって目がはなせない。  恐ろしい、という感情だ。 「幻覚……幻覚か……」  呟く。  べつに見たことがないわけではない。  ほかのことを考えようとする。  怪物があらわれる、という場合に一度出現が起きて、また出現が起きるまでのあいだがあり、周期がある理由。  そのことで自分たちに有利であることがいくらかある。だが、判明はしていない。わからないことは不安や恐怖心を生み、未明であることは、狂気を生む。  狂気にのまれてはならない。狂気とは、幻覚や幻聴をおぼえるものではない。もっと具体的なかたちとなって人間のまえにあらわれるものがそれである。  狂気にのまれてはならない。 「ゲンコ」  ゲンコは、瞳をまたたいた。はっとして声のしたほうをそっと見やる。  怪訝な顔をしたケルスが立っている。ゲンコは、目をはなしたことを気にして、階段の下を見た。  さっきまでそこにいた人影はこつぜんと消えている。 (なんなのよ)  あれは、やはり幽霊だ。  いや、ちがう。 (あれは私だ)  思い出す。なにも考えず鏡をのぞきこんだときの、おちつかない感覚を。  だが、なにを言っているのか。 「どうかした?」  ケルスが声をかけてくる。ゲンコはその顔を見て、一瞬息を呑んだ。  こちらを見てほほえんでいる。  そう見えた顔が、次にはぱっと消えている。  コマ送りのように不自然だった。ケルスは、最初見たままのいぶかしんだ顔で立っている。ゲンコは、彼女の顔を見たままふう、と息をぬいた。  ケルスはふむ、とゲンコの顔を見返してきた。 「階段の下?」 「え?」 「いえ。起きてたのね。早いな」 「ケラーさん、現場でしょう?」 「そうよ。もっと時間かかる予定だったんだけど、ま。この際だからすこし寝るわよ。朝ごはん、どう?」  ケルスは言ってきたが、ゲンコはあー、と、ほほをかいた。血の気がひいたのか、妙にかわいている。 「もう食べました。すみません」 「そっか。あ、いい、いい」  にこにことして、ケルスは言った。 「もう少し寝たほうがいいんじゃないかな。ちょっと顔色わるいから」 「一回寝ちゃったし」 「よね」  じゃあ、おやすみ、お疲れ様、と言うとケルスは自分の部屋に入っていった。  アパートのドアが閉まる音がひびく。ゲンコは、そこで気づいて、なんとか平静はたもっていた。   ケルスはアパートの階段を上がってきた。 (なのだから、私が階段の下を見ていたのは見ていた)  上がってくるとき、なにか悪いものを見ている血の気のひいた顔でゲンコが階段の下を、凝視していたのである。  そのことはぜんぶ気づいていての、さっきの反応だろう。  では。  なぜ、自分は逆にケルスが階段を上がってくるのに気づいていないのか。 「……」  ゲンコは、無言でため息のかわりをした。  雨音に耳をかたむける。指でほほをこすって、徐々に感情から意識をはなす。目があの人影のいたところにすいよせられる……のを嫌って、アパートの壁のほうに体をむける。  おそろしい。怪物と、怪物以外の存在と。 「ああ――」  手すりに背中をふれさせる。額を手のひらでなでて、もう一度呼吸をふるえさせた。 (私でも、あんな幻覚みたいなはっきりしたものを見ることができるんだな)  安堵して、それから顔をあげる。部屋にもどろうと考える。  よかった、と頭のすみに浮かべながら。 (私も、ちゃんと人間なんだ……)
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