義井映日 / 第5話

第5話 王の鎖

第5話 王の鎖    剣を握る掌に、いつしか厚い皮ができていた。  クロエは二十五、私は三十。政務と剣の日々だった。  その間クロエは前線にいた。  境界近くの村が天使の急襲を受けた。クロエが真っ先に馬を走らせた。一名の死者も出さずに撤退を成功させたと、報告書にはあった。  初めの頃は戻るたびに執務室へ来た。土埃のついたまま、戦場のことを話していった。  やがて戻っても顔を見せない日ができた。書面の方が先に届いた。  三年目からは書面だけになった。  朝議で名が挙がれば、重臣たちが頷く。  一度、廊下ですれ違った。礼をして行き過ぎる背を、呼び止める用はなかった。  私が知るクロエは、いつからか紙の上にしかいない。  事態が動いたのはその頃だった。  ここ数年、小競り合いが絶えなかった前線が、にわかに慌ただしさを増していた。  報せは朝議の場に届いた。 「前線にて、天使との大規模な決戦が行われる見込みとのこと」  父上自らが指揮を執るという。数万年にわたる大戦に、今度こそ終止符を打つ。  出陣の朝、鎧姿の父上を見送った。 「留守を頼む。近く、アークにも召集がかかるだろう。その後任のことも、任せた」  馬に乗る前、父上が振り返った。  私の顔を上げさせ、右目を覗き込む。幼い頃と同じ手つきだった。  何も言わずに手を離した。  それきり、振り返らなかった。 ◆  ひと月が過ぎたある日、正装のアークが執務室へ入ってきた。隣には同じく正装のクロエ。 「殿下。自分も、間もなく前線へ発ちます。その前に――副魔王の職、クロエへの継承をお認めいただきたく」  深く頭を下げる。  言葉に詰まった。 「クロエ、それでいいのか」  問いに、クロエは迷いなく頷いた。 「はい。殿下の隣に立てるのなら」  同じ言葉を聞いたことがある。  庭で、クロエの稽古を見ながら、アークが言った。  そのアークが隣に立っている。表情は動かない。  クロエの顔に、誰の言葉かを知っている色はない。  この男には、また礼を言えなかった。  継承の儀は謁見の間で執り行われた。  居並ぶ重臣たちの前、アークが跪く。指輪を外す手が途中で止まった。 「この証、ここに返上いたします」  短い口上と共に指輪が捧げられる。  受け取ったそれを、アークの隣に立つクロエへそのまま差し出した。 「父上に代わり、留守を預かる身として申し渡す。クロエ、今この時より、お前を副魔王として迎える」  クロエが膝をつく。その指に指輪を通す。  指先が触れた。それだけのことに手が止まりかけた。  冷たい金属が、みるみるうちに体温を帯びていく。  重臣たちは誰も動かない。  アークはまだ跪いていた。 「謹んで、お受けいたします」  顔を上げたクロエは、まっすぐにこちらを見据えていた。背筋を伸ばし、微塵も揺るがない佇《たたず》まいだった。 ◆  深夜、寝所の扉を叩く音で目が覚めた。  入ってきたのは、伝令だった。土埃と血にまみれた体で、その場に片膝をつく。 「――申し上げます」  息が上がっている。  先を促す。寝台から降りる間さえ惜しかった。 「陛下が、討ち死にされました」  足先から、指先まで。一気に冷えていく。 「戦況は、我が方の勝利。大戦は、終結いたしました」  床に下ろした足に力が入らない。寝台の柱に手をついた。  伝令は言葉を継いだ。 「アーク様も、深手を負われましたが……ご無事です」  柱から手を離した。 「立て。手当てを受けろ」  窓の外はまだ暗かった。 ◆  黒い石の壁に、足音が返ってくる。父上の葬儀は祭祀《さいし》の間で執り行われた。  最初に、祭壇の奥の祠《ほこら》へ進んだ。石に掌を当てる。  紫が灯り、石の奥へ沈んでいった。  次にクロエが、それから重臣たちが一名ずつ掌を当てていく。  式が終わるまで、クロエは少し離れた場所に控えていた。声も立てなかった。  参列者が去ると、クロエがそばに来た。  その手が私の手に重なった。 「殿下も、お独りではありません」  それだけ言うと手を離し、元の距離に戻っていく。  離れた後も、そこだけ温かかった。 ◆  真っ白な包帯がまず目に入った。療養中のアークを見舞ったのは、葬儀から数日後のことだ。  私が着いた時には、クロエはもう帰った後だった。毎日来ている、と侍女が言った。  寝台の上でアークが腕を動かそうとするのを、慌てて制した。 「無理をするな」 「殿下が、自らこんな場所まで。合わせる顔もございません」  声はいつもより掠《かす》れていた。それでも、目の光は変わらない。  アークが俯いた。 「陛下をお守りできず、申し訳ございません」  その声に、初めて震えが混じった。 「お前のせいではない」  アークは答えなかった。 「クロエは、立派に証を継いだ」 「勿体《もったい》なきお言葉です」  少しの沈黙の後、その口の端が小さく上がった。 「――昔から、聞き分けの良い子ではありましたので」  この男が笑うのを、見たことがなかった。 ◆  空の玉座の前に、クロエと並んで立った。殿下と副魔王として、初めて共に臨む公務だった。隣国からの使者を迎える席である。  クロエの背筋は伸びたままだ。相手の鋭い目にも一切怯《ひる》むことがない。 「頼もしい副魔王をお持ちのようですね」  そうだろう、とは言わずにおいた。  末席の重臣が一名、クロエをじっと見つめていた。使者の言葉には頷かなかった。  退出する間際、クロエが耳打ちしてきた。 「緊張して、途中から使者様のお名前を忘れてしまいました」  悪びれもせず笑う顔に、思わず頬が緩む。  その日はそれ以上何も考えずに済んだ。 ◆  夜更け、謁見の間に独り立った。  もう誰にも「留守を頼む」とは言われない。  玉座に手をかけた。腰は下ろさなかった。  下ろせば、王という名の鎖が巻きつく。  高窓の外、遠い丘にいくつも火が見えた。戻ってくる兵を迎える灯りだろう。  空が、いつの間にか白み始めていた。

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