義井映日 / 第4話

第4話 開花の刻

第4話 開花の刻    クロエは十八、私は二十三になっていた。  剣の稽古よりも、政務に費やす時間の方が長い。  それでも、間隔を空けながら顔を合わせる習慣だけは、途切れずに続いていた。  だがここ半年は、前線への補給の差配に追われ、一度も顔を出せずにいた。  ある日、政務の合間を縫って、父上が私の執務室を訪れた。 「クロエが、お前への目通りを願っている」  用件も告げず、そう切り出す。  父上自らが出向いてくるとは、珍しいことだった。 「応接間へ。私も同席しよう」  言われるまま、父上の後に続いた。  開け放たれた窓から、庭の花の匂いが流れ込んでいた。今が盛りだというその花は、噎《む》せ返るほどに甘く、重い香りを放っている。  扉が開いた。  衣擦れの音が、足並みに合っていた。歩き方まで、どこか大人びている。  通されたクロエを見て、言葉に詰まった。  半年前に会った時とは、何かが違う。線の細さも、伸びた髪も、見慣れていたはずなのに。  左頬の文様だけが、記憶のままそこにあった。  いや――記憶より、色が濃い。  クロエは、扉の内側で足を止めた。何と呼べばいいのか、決めかねている。 「にい……」  言いかけて、止まる。  目が、隣に座る父上へと一度流れた。それから、居住まいを正し、深く息を吸う。 「――いえ、殿下」  言い直された呼び方に、胸の奥が波立った。 「クロエでいい。今まで通り」 「では、兄さま」  柔らかく笑うと、クロエは悪戯《いたずら》っぽく片目を細めた。 「あの夜は、結局一匹も捕まりませんでしたね」  昔のことを持ち出され、思わず頬が緩む。 「お前が先に飛び込んだからだ」  束の間、あの夕暮れの庭に戻っていた。  その笑みが収まった直後、クロエはその場に膝を折った。絹の衣が、床にふわりと広がる。深く垂れた頭に、後れ毛が一房、頬に落ちた。 「私を、正式に兄さまの下で働かせてください。剣も、礼儀作法も、恥ずかしくない程度には仕込まれたつもりです」  顔を上げたクロエと、目が合う。  見覚えのある顔だった。見覚えのない顔でもあった。  目のやり場に、困った。  衣が動いた拍子に、香りが鼻先をかすめた。庭の花とはまた違う、もっと近い、肌そのものから匂い立つような甘さだった。  クロエが、目を伏せた。袖口に、指が触れる。乱れてもいないのに。  すぐに、手は下りた。  父上が、頷いた。 「良い心掛けだ。だが、それを決めるのはお前ではなく、この者だ」  そのために、自ら足を運んだのか。  父上が、こちらを見た。答えるまでに、間があった。  喉の奥に、いくつもの言葉がせり上がっては消えていく。行くな、とも、傍にいろ、とも言えるはずがなかった。 「好きにしろ」  それだけ、絞り出した。  クロエの笑みが、止まった。  喜ぶでも、礼を言うでもなく、ただ額を床につけた。それから、いつもの顔に戻った。  柔らかく笑む唇。伸びた指先。こちらを見上げる仕草。  どれも、昔と同じはずだった。  なのに、同じように見られなかった。 ◆  その夜、幾度も寝返りを打った。  瞼を閉じるたび、応接間での一幕が繰り返し蘇《よみがえ》る。  抱きしめたい、という単純な言葉では足りない何かが、腹の奥に燻《くすぶ》っていた。  守りたい気持ちと、閉じ込めてしまいたい衝動。その境目が、分からなくなっていた。  この感覚に、名前をつけたくなかった。  つけてしまえば、もう後戻りできない気がした。 ◆  書面での申し渡しは、父上が手配した。  クロエが正式に私の下に入って、三ヶ月が過ぎた。  執務机に向かっていると、扉が鳴った。 「失礼いたします。境界の砦からの報告を、自分がお預かりしてまいりました」  書類を差し出す手つきに、迷いがない。 「兄さ……いえ、殿下。ご確認を」  言い直す回数が、日に日に減っていく。訂正はしなかった。  毎日、顔を合わせている。  クロエが退がった。扉が閉まって、部屋が急に広く感じた。  侍従が茶を運んできた。 「本日は、随分と筆が進んでおられますね」  機嫌の良さを見透かされて、ばつが悪い。生返事を返し、次の書類に手を伸ばす。  程なくして、アークが顔を出した。 「屋敷の方に、クロエの縁談が三件届いております。成体になりました以上、当然のことかと」  抑揚のない声で、アークがそう告げる。  その一言が、うまく頭に入ってこない。何度も聞き返しそうになるのを、堪える。 「クロエには」 「まだ、伝えておりません」 「全て断れ」  自分の声とは思えないほど、低く尖っていた。握った拳の中で、伸びた爪が掌に食い込む。  アークは表情を変えず、一礼した。扉に手をかけたまま、束の間、動きを止める。  それから、いつもより深く、頭を下げた。  何も言わないまま、部屋を出ていく。  物心つく前から、ずっとそこにあった背中だった。  机の隅に目をやる。私宛にも同じものが、開かれないまま、埃をかぶっていた。  その日の夜、自室の窓辺に立った。  断ったばかりの縁談のことを、考えていた。  断る権限など、本来私にはない。それでも、断らずにいられなかった。  クロエは、私のものだ。  今夜だけは、その手触りが違った。  手にした杯の酒を、一息に呷《あお》る。喉を落ちる熱さは、疼きを紛らわせてはくれなかった。  窓に、自分の顔が映っている。  目を逸らした。自分の顔からだ。

運営おすすめ

週間ランキング

全ランキング

反応スコアランキング

もっと見る

PV・ブックマークランキング

もっと見る

更新された連載作品

すべて見る
読み込み中…

新着短編

すべて見る
読み込み中…

作品一覧

読み込み中…

作品ダッシュボード

作品全体の公開状況と、読者からの反応をひと目で確認できます。

作品パフォーマンス

選択期間のPVが多い順

上位5作品
ライブラリ

作品の公開状況と構成

最近の更新

最後に編集した作品

要チェック

公開前に確認したい項目

プレビュー
読者に表示される見た目

表示設定

文字サイズ
100%
背景色
縦書き表示
リッチモード
目次
読み込み中…

キーワードを入力して作品を探しましょう

アクセス解析
アクセス解析データは 5分おき に自動更新されます
読み込み中…
ランクイン記録
通知
通知はありません
地形ブラシ
25
スタンプ
ツール
装飾
表示
100%

世界地図

100%

REACTION SCORE

反応スコアの内訳