義井映日 / 第8話

第7話 対面

第7話 対面   鷹眼宮《ようがんきゅう》とは違う、音のない屋敷だった。  門の内側の庭が、狭く見えた。クロエが木剣を振っていた辺りに、草が伸びている。  玄関の戸を開けたのは、盆を抱えた侍女だった。器が、小さく触れ合った。  深く頭を下げたまま、顔を上げない。  部屋の場所は、覚えている。  薄暗い廊下を進む。すれ違う使用人たちは道を空け、そのまま立ち止まっていた。  クロエの私室の前に立った。  懐の指輪を、衣の上から押さえた。  扉を開けた。  朝の光が差し込んでいる。  枕元の卓に、手のつかない膳《ぜん》が二つ重なっていた。下の方は、乾いて色が変わっている。  寝台の縁に、クロエが座っていた。  頬はこけ、目の下に濃い隈《くま》があった。左頬の青い文様が、記憶より淡い。それでも、こちらをまっすぐに見返してくる。  医者を、と言いかけた。  それも命令になる。 「勝手に、入ってこないでください」  硬い声だった。 「話がある」  クロエの目が、膝の上へ落ちた。しばらく動かない。 「聞きたくありません」  足が止まった。  葬儀の日も、クロエはこの距離へ戻っていった。  壁際に、副魔王の正装が掛けてあった。帯まで揃えてある。  書き物机の端には、丸めた紙がいくつも転がっていた。広げかけた一枚は、「陛下」の二文字きりだった。  前へ出た。 「食べていないのか」 「……入りません」 「なぜ、指輪を返した。なぜ、即位の儀に来なかった」  クロエは乾いた唇を開いた。 「自分は、陛下の持ち物ではありません」 「――何の話だ」  クロエは答えなかった。しばらくして、まったく別のことを言った。 「先月、政務室で……陛下の机の端に、書類が」  瞼が下りた。 「見るつもりは、ありませんでした。ただ、見えてしまって……『クロエ・縁談三件・全て却下』、と」  昨夜、その束を引き出しに仕舞ったばかりだった。  先月の分は、使者の口上を最後まで聞かずに退けた。  クロエが唇を噛んだ。 「陛下の御筆跡でした。以前にも一度あったと、アーク様から伺っていました。あれきりだと、思って……」  言葉が途切れる。  膝の上の手が、持ち上がりかけて、落ちた。 「また、黙って……他にも、黙って決められたことが、あるのではないかと。あの村での一件も……指揮官のいない状況に、自分一人が真っ先に……撤退の道が、都合よく。……あれだけじゃ、ない。どの戦も、そう思えてきて」 「違う。あれは全部、お前の力だ。私は、手を出していない。あの村のことは、報告書で知った」  クロエが顔を上げた。 「……信じたいのです」  声が掠れる。 「でも、もう分かりません。何が本当で、何が陛下の手なのか。積み上げてきたと信じていたものが……全部」  クロエの頬を、涙が一筋伝った。  窓の外で、小鳥が一声鳴いた。何でもない、いつもの朝の音だった。 「森で拾われたあの日から、私にとって陛下だけが、迷わず信じられる方でした。……この魔界で、ただ一人」  濡れた目元を、指先が拭った。 「他の誰に裏切られても構わない。そう思えたのは、貴方だけは違うと、信じていたからです」 「クロエ」  思わず一歩近づいた。  クロエは、同じ分を後ろへ引いた。寝台に後ろ手をつき損ね、体が小さく揺れた。  腕が出かけた。  伸ばせば、また引かれる。 「私は、陛下の持ち物ではありません」  今度は、声が揺れなかった。 「即位の儀では、誓いを立てねばなりません。御身のためにのみ燃える、と。継承の儀では、迷わずお受けしました。あの時は、怖くなかった」  肘掛けを握った感触が、蘇った。 「王になられた今、貴方を止められる者はいません。そういう方に、この身の全てを誓うのが……怖かったのです」  両手が固く組まれた。こちらは見ない。 「こんな真似が、副魔王として無責任だということは、分かっています。アーク様にも、何も言わないでほしいと、お願いしました」  組んだ手がほどけかけて、締まり直した。 「前線から戻るたびに、お話ししに参りました。お引き留めにならないから、行くのをやめました。指輪なら、届くと思いました」  気づくと、私の爪が掌に食い込んでいた。 「……すまなかった」  クロエは俯いたまま、首を振った。  縁談を断った理由なら、ある。  告げれば、また一つ、クロエの行く先を決めることになる。  懐に手を入れた。指輪に触れる。  差し出せなかった。 「……自分は、少し休みます。お帰りください、陛下」  踵《きびす》を返す。  戸口で振り返った。  クロエは、寝台に横たわろうとしていた。  朝の光が、膳の脇まで伸びていた。  閉めた扉の向こうで、寝台が軋んだ。 ◆  玄関の脇に、あの侍女がまだいた。 「膳を、温かいものに替えてやれ」  侍女は盆を抱え直し、奥へ小走りに去った。  門は開いたままだった。  門番が、閂に手をかけずに立っている。閉めろとは、誰にも言われていないのだろう。  馬に乗り、来た道を戻る。  草原の虫は、鳴き止んでいた。  帰りは、すぐに着いた。

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