義井映日 / 第9話

第8話 欠けた円卓

第8話 欠けた円卓   あの朝から、半月が過ぎた。  二度、三度と屋敷を訪ねた。今度は、命じて門を開けさせることはしなかった。いずれも門前で断られた。  最後に訪れた日、庭の隅を横切る後ろ姿だけが、遠目に見えた。声をかける間もなく、屋敷の中へ消えていった。  鷹眼宮《ようがんきゅう》の空には、並の悪魔には見えない紫の帯が漂っている。  魔力の澱《よど》みだと、幼い頃に教わった。今日はその帯が、いつになく低く垂れ込めていた。 「失礼します」  ゼンが執務室に入ってきた。  跪くと、尖った耳の先が、灯りに淡く透けた。 「クロエ様の見舞いを、お許しいただけないでしょうか」  しばらく、窓の外の帯を見ていた。 「――私では、通してもらえなかった」 「存じております。ですが、自分は」  床についた指先の爪が、石を掻《か》いて細い傷を残した。  感情が昂《たかぶ》ると、爪が伸びる。悪魔特有の性質だ。今の爪は、普段より一回り長く、灯りに鈍く光っていた。 「自分は、一介の騎士です。陛下ほどの重みは、持ちません」 「なぜ、そこまでする」  問いに、ゼンは目を伏せた。 「……即位の儀の少し前、政務室の前で、クロエ様とすれ違いました。紙のようなお顔でした」 「理由は、もう知っている」  ゼンが顔を上げた。 「誓いの場で、申し上げるべきでした」 「止めたのは、私だ」  ゼンは首を振った。 「それに、駆け出しの頃、何度も無様に負けた自分に、根気強く稽古をつけてくださったのが、クロエ様でした」  爪は、まだ伸びたままだった。 「あの方のように在りたいと、ずっと思ってきました。強さに驕《おご》らず、力の弱い者に背を向けない方です」 「好きにしろ」  ゼンは一礼して、退がっていった。  この男が最後まで話すのを聞いたのは、初めてだった。 ◆  剣を握る時間が、以前より増えた。  その日、握った箇所から木剣が炭になった。  紫炎は、出していない。  稽古相手のノアが、黙って一歩下がった。  こんなことは、顕現して間もない頃以来だ。  副魔王の欠席は、紫炎の騎士たちの間でも話に上っていた。誰も面と向かっては尋ねてこない。すれ違う騎士の歩みが、決まって遅くなる。  稽古場の隅で、若いリオンが足を止め、こちらを窺《うかが》った。 「言いたいことがあるなら、言え」 「……いえ。木剣の替えが、足りなくなりそうだと」  毒気を抜かれた。  副魔王の政務は、アークに預けた。毎日、顔を合わせる。  傷は塞《ふさ》がっていた。だが、気配がまだ薄い。  その机に、クロエ宛ての束が積まれていく。  境界の砦からの報告は、別の者が届けに来るようになった。  扉の鳴り方が、違う。  詫びの言葉を、何度も頭の中で組み立てては崩した。どんな言葉も、あの日の涙の前では薄っぺらく響く気がした。  アークと交わすのは、用件ばかりだった。  ただ一度、決裁の合間に、ぽつりと呟きが漏れた。 「聞き分けの良い子ですが、一度決めると動きません。時が要ります」  私の筆が止まった。  顔を上げた時には、アークはもう書類に目を戻していた。  城下を見て回るのは、本来は副魔王の役目だった。その日は供を一名連れ、気配を殺して市中を歩いた。  道すがら、供の者が耳打ちしてきた。 「市場の方で、妙な噂が流れております」 「聞かせろ」  供が答えるより先に、露店の陰から男たちの話し声が聞こえてきた。 「副魔王の頬の文様が、薄くなったそうだ」 「力が落ちたなら、座も空くな」 「陛下が、何かなさったらしい」  声は、風に紛れて途切れた。 ◆  朝議の間に入ると、円卓の椅子が一つ、減っていた。  空席のままでは体裁が悪い、と誰かが判断したのだろう。 「戻せ」  その日のうちに、椅子は元の位置に置き直された。  命じれば、椅子は戻る。  窓の外の帯は、低いままだった。  廊下で、末席の重臣が一名、壁際に寄りもせず立っていた。  使者がクロエを褒めた日、頷かなかった顔だ。 「副魔王の座も、いつまで保つものやら」  こちらを見たまま、目を逸らさない。  先に目を逸らしたのは、私だった。  官吏たちの間では、次期副魔王の名まで挙がっているらしい。  指輪は、まだ懐にある。  受け取るとも、返すとも言っていない。  空席のまま握っているのは、私だ。 ◆  扉を叩く音がした。またゼンだった。いつもの、穏やかな顔をしていた。 「お部屋まで、通していただけました。クロエ様の頬の文様に、色が戻りかけております」  筆を置いた。  窓の外の帯が、少し上がっていた。 「今朝は窓を開けて、何もない空を、長く見ておられました」  ゼンが拳を握った。 「まだ、陛下の名は出せません。ですが」  目が、薄闇の中で金色に光った。 「自分でよろしければ、間に立ちます。焦らず、少しずつ」 「――頼む」  立ち上がり、礼をした。 「どうか、おやめください。力の上の方が、下の者に頭を下げるものではありません」  尖った耳の先が、赤く染まっていた。  その狼狽《うろた》えぶりに、場違いにも、口元が緩みかけた。  身を起こすと、ゼンもまた、困った笑みを浮かべていた。

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