義井映日 / 第3話

第3話 無邪気

第3話 無邪気    乳母がクロエを抱き上げるのを見ると、無性に苛立った。  手元の水差しに、罅《ひび》が入った。  クロエを、奪い返したい。  毎朝、誰よりも早くクロエの部屋へ向かった。眠るクロエの傍らに座り、目を覚ますまで、ただ見ていた。  小さな手が、私の指を握り返す。何度繰り返されても、飽きない。  乳母は、そんな私を見て、困ったように微笑んだ。 「皇子様がそこまでご執心とは、この子も果報者ですね」  耳の後ろが、熱を持った。返事をせずに、部屋を出た。  父上に呼ばれ、私室を訪れたのは、そんなある日のことだ。 「いずれ、あの子には相応の教育が要る」  前置きもなく、そう告げられた。  私は俯《うつむ》いた。  窓の外では、いつもと変わらず鳥の声がしていた。  数日後、クロエは鷹眼宮《ようがんきゅう》を出た。父上に仕える副魔王、アークの屋敷へ。  見送りには出なかった。  空になった寝床に、手を置いた。まだ、温もりが残っていた。 ◆  入れ替わるように、私にも剣を握る時間が課せられた。 「陛下になられる方が、その程度で音を上げられては困ります」  容赦のない声に、幾度となく木剣を弾かれた。それでも、この稽古の先にクロエと並び立つ未来があるのだと思うと、握り直す手に力が戻った。  繰り返しているうちに、四年が過ぎた。クロエは四つ、私は九つになっていた。  初めのうちは、供もつけずに出歩く皇子に、衛兵が足を止めた。今は、誰も止めない。  屋敷に着くと、その日は珍しく、アークが玄関先にいた。 「本日も」  感情の乗らない出迎えだった。道を開けるついでに、クロエの遊び相手にでもなってやってくださいと、付け加えることも忘れない。  庭に出ると、クロエが真っ先に駆け寄ってきた。  肩で切り揃えた金の髪に、三角帽子を模した髪飾り、丸みの残る頬。  左頬の青い文様は、四年前と変わらない。  初めて屋敷を訪れる者は、しばしばクロエを幼い魔女と取り違えた。ちがうもん、と胸を張って言い返す。  侍女たちは、その文様を遠巻きに見ていた。 「にいさま」  その一言で、弾かれた腕の痛みが遠のいた。  やがて、アークがクロエに剣の型を教え始めた。木剣を握る手を、上から包んで直す。危なげのない手つきに、胸の奥がざらついた。 「剣を教えているのか」  稽古の合間、傍らに来たアークに、そう尋ねた。 「はい。いずれ、身を守る術が要りますので」  目は、クロエから動かない。 「……皇子様のお隣に立つのなら、尚のこと」  胸のざらつきが、行き場をなくした。  そんなことを、口にした覚えはない。アークは、当たり前のように言った。  礼を言うべきだ。そう思ううちに、アークは離れていった。  クロエが、こちらへ木剣を振ってみせた。褒めろ、という顔だった。  昼過ぎ、庭で摘んだ花を巡って、クロエと屋敷の乳母が言い争いになった。摘んではいけない花だったらしい。 「だめだって、しらなかったもん」  頑として譲らず、ついには床に座り込んで泣き出した。困り果てた乳母に代わって、隣にしゃがみ込む。 「その花、私にくれるか」  涙目のまま、こくりと頷いた。差し出された花を受け取ると、もう笑っていた。  摘んだのは私だ、と乳母に告げた。  それで話は終わった。皇子が摘んだ花を、咎める者はいない。  日が傾く頃、クロエが茂みの奥を指差した。蛍が、いくつも光っている。 「ねえ、あれ、とって」  興味はない。手が伸びかけた時にはもう、クロエは自分で茂みに飛び込んでいた。 「待て、危ない」  止める間もなかった。案の定、足を滑らせて転び、それでも泣きもせず、両手いっぱいに泥をつけたまま立ち上がる。 「とれなかった」  悔しそうに唇を尖らせた。  結局、一つも捕まえられなかった。それでも、次の茂みへ駆けていく。  その背中を追いかけて、こちらの方が息が上がった。 「にいさまは、みんなにやさしい」  泥を落としてやっていると、そう言われた。  優しいわけではない。ただ、クロエといる時間が、私を穏やかにする。  そう思ったが、口には出さなかった。  帰る時間になると、クロエは私の裾を離さなかった。 「まだ、いい?」  振り返ると、門の前でいつまでも手を振っている小さな影があった。  こんな日が、幾度も過ぎた。帰り際の問いは、いつも同じだった。 ◆  指南役に弾かれる回数は、季節を追うごとに減っていった。共に過ごせる時間は、代わりに短くなっていく。  それでも、会うたびクロエは「にいさま」と、変わらず笑いかけてくれた。  ただ一度だけ、違う顔を見た日がある。  庭で採れたばかりの木の実を差し出しながら、クロエがふと、私の後ろのどこか遠くを見つめた。 「――にいさま、いつか、とおくにいっちゃう?」  誰かに聞いた様子はなかった。意味を聞き返す前に、クロエはもう、いつもの笑顔に戻っていた。  あの時の顔だけは、今でもうまく思い出せない。  遠くへ行ったのは、私の方だった。

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