義井映日 / 第2話

第2話 黄金の命

第2話 黄金の命    まだ大戦の爪痕が至る所に残る、荒れた時代の話だ。私は五つだった。  物心ついた頃には、もう独りだった。  成体の者たちは、私を見ると決まって一歩下がり、それから深く頭を垂れた。手を繋いでくれるのは、いつも父上だけだった。  ある朝、乳母が私の寝間着の紐を結びながら、いつもより早口だった。 「今日は、父上様のお召しがございます。急ぎ支度を」  理由も告げられないまま、寝間着から外套に着替えさせられた。  急かされるのは珍しい。胸の奥が、落ち着かなかった。 ◆  数日前から、森の外れを守る見張りたちが、夜ごと奥から光が滲み出るのを見たと報告していた。  禁忌の森。祖父の弟君が興味本位で足を踏み入れ、それきり戻らなかった。壁に弾かれた様子はなかったという。以来、誰も近づかない。確かめに向かった兵も、見えない壁に弾き返されるばかりだった。  父上は、報告を聞くと、私の顔を上げさせ、右目を覗き込んだ。  幾日か前から、その奥が疼いていた。誰にも言っていない。  それから、何も言わずに私の手を引いた。  迷いのない足取りだった。  その手に引かれるまま、私は歩き出した。  森の最奥、誰も足を踏み入れない場所から、金色の光が漏れていた。  供の者たちは、途中で足を止めた。私からも、光からも、同じ距離を取っている。 「――これ以上は、私共では」  声が震えていた。兵が一名、見えない壁の前で立ち止まったまま、悔しげに拳を握っている。恐れているのが森なのか、この状況そのものなのか、幼い私には見分けがつかなかった。  父上は、私の手を離さなかった。 「恐れることはない。私と一緒だ」  意味は、分からない。ただ、光の方へ、また一歩。  兵たちを弾いたはずのものは、そこになかった。風が、ただ風のまま、頬を撫でていく。  繋いだ手に、力がこもった。  躓《つまず》いた拍子に、その裾を強く握った。父上は、私を抱え直した。  鬱蒼《うっそう》とした木々が、頭上の光を全て飲み込んでいた。  踏みしめる下草は、いつまでも湿り気を帯びている。遠くで鳴いていたはずの獣の声が、いつの間にか聞こえなくなっていた。  背後で、何かが枝を踏む音がした。振り返っても、そこには誰もいない。  その時、闇の中から、黒い影が一つ、飛びかかってきた。  悲鳴を上げる間もなかった。父上が私を抱え込み、もう片方の手を振った。紫の光が走り、獣とも悪魔ともつかない甲高い声が、一声だけ響いて消えた。 「大丈夫か」  抱えられたまま、こくりと頷く。その腕から、震えが伝わってきた。  父上の手だけが、確かな熱を持っていた。  やがて、木々の隙間から、何かが小さく光っているのが見えた。近づくほどに、光は強くなっていく。  風が吹き抜け、私の銀の髪を揺らした。  苔むした石の台の上に、小さな籠が一つ。その中で、金の光そのもののような何かが、眠っている。  周りを、コウモリが低く飛び回っていた。  その羽の形に、見覚えがあった。先ほど、闇の中から飛びかかってきた影と、同じ輪郭をしている。  私だけが、前に出た。  羽音が、止んだ。  コウモリたちは争わずに退くと、頭上の枝へ移り、そこから動かない。  波が引くように、光も消えていく。  淡い金の髪が、小さな額に張り付いている。左の頬に、青い文様があった。小鳥の形をしている。  私の頬には、何もない。  眠っていたそれが身じろぎして、閉じていた瞼《まぶた》が、うっすらと持ち上がる。  ――琥珀《こはく》。  しばらく、見入っていた。こんな色を、私は他に知らない。  目が合うと、笑った。  誰も私を見て笑わないのに。  頬の裏側が、勝手に強張った。何と返せばいいのか、分からなかった。  差し出した指に、小さな手が絡みつく。父上でも、供の誰でもなく、私の指だけを選んでいた。  気づけば、握り返す指に、力がこもっていた。  この子は、私のものだ。そう思った。  抱き上げると軽く、掌の下で、鼓動が強く脈打っていた。  生きている。  それだけのことが、胸を突いた。  父上が、私の隣に立った。その目が、頬に留まっている。それから、ゆっくりと口を開いた。 「この子に、名を付けてやりなさい」  いくつか、言葉が浮かんでは消えた。どれも、違う気がした。  腕の中を見下ろして、もう一度考える。 「――クロエ」  古い言葉だった。理由は、うまく言えない。 「クロエ、か」  父上は笑って、私たちの頭を一度ずつ撫でた。  腕の中で、クロエはまた眠りに落ちていく。 ◆  森を抜けると、風の匂いが変わった。獣の声も、下草の湿り気も、そこにはもうなかった。  空は、行きよりも赤く染まっている。  帰り道、供の者たちは、行きよりも幾らか近い距離を歩いた。腕の中を、幾度も見ていた。誰も、口には出さなかった。  供の一名が、そっと外套を私の肩にかけた。夜風が出てきたから、とだけ呟《つぶや》いた。  遠くに、鷹眼宮《ようがんきゅう》の灯りが見え始める。  私は片時も、その重みを手放さなかった。腕は、とうに疲れていた。 ◆ 「お戻りなさいませ、皇子」  宰相が、出迎えの列から迷いなく進み出て、深く頭を下げる。他の者たちは列を崩さず、名も知らぬ小さな悪魔を一目見ようと、ただ首だけを伸ばしていた。侍女が一名、恐る恐る覗き込み、その愛らしさに思わず声を漏らした。  急ぎ整えられた一室に、クロエを横たえる。  布を解いた乳母が、男の子ですね、と笑った。  クロエ。男には、少し柔らかい響きだったかもしれない。それでも、もう変える気はない。  その夜、父上がそこを訪れた。眠るクロエの、左の頬を見ていた。 「野に捨て置けば、いずれ良からぬ者の手に渡る」  一度、言葉が途切れた。 「だが、辿り着いたのはお前だ。それが何を意味するのか、私にもまだ分からない」  それ以上は何も語らず、部屋を後にした。  数日が経った、ある晩のことだ。寝返りもまだおぼつかないクロエを抱いたまま微睡《まどろ》んでいた私を、父上がもう一度訪ねてきた。 「この子は、ただの拾い子ではない」  枕元に、腰を下ろす気配がした。 「血でも、家柄でもない。お前が選び、お前に選ばれた者だ」  父上の手が、クロエの額にかかった髪を払った。 「上に立つ日には、隣にそういう誰かが要る」  寝ぼけ眼のまま、その言葉だけは、はっきりと耳に残った。  上手く頷けなかった。ただ、腕の中の温もりを、強く抱き直した。父上が去ってからも、しばらくそうしていた。  眠ったままのクロエを寝床へ下ろし、部屋を出た。  指先に、小さな手の感触が、まだ残っていた。  数歩で足が止まる。引き返して、扉の隙間から中を覗いた。眠っている。  それを確かめないと、自分の部屋へ戻れなかった。

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