義井映日 / 第10話

第9話 欠けた円卓 二

第9話 欠けた円卓 二   ゼンからの文を手に取った。 「クロエ様が、少しだけなら、お会いになると仰っています」  その一文を、何度も読み返した。紙の端が、震えていた。  なぜ、とは書かれていない。  急ぎ支度を整える。鏡の前で、襟元を幾度も直した。  指輪は、机に置いていく。今日は、返しに行くのではない。  懐には、小さな包みを入れた。  宮を出てから、何を話すべきか考えを巡らせた。だが、屋敷の屋根が見えてきた途端、頭の中の言葉は全て散っていった。  手綱を握る掌が、湿っていた。 ◆  門は、開いていた。  あの日、盆を抱えていた侍女が、顔を上げて会釈をし、先に立った。  控えの間で、待たされた。長椅子に腰掛けると、指先の爪が、伸びかけては引いた。  この長椅子には、覚えがある。  稽古の後、走ってきて、ここで息を整えた。  やがて、庭に面した小さな居間へ通された。私室ではなかった。  クロエは、窓際の椅子に座っていた。左頬の文様は、まだ淡い。この前より、色がある。  髪は、丁寧に結い上げられていた。衣も、療養中とは思えないほど、きちんと整えられている。この日のために、支度したのだろう。 「どうぞ、お掛けください」  声に、硬さが残っていた。それでも、拒絶ではない。向かいの椅子に腰を下ろす。  しばらく、どちらも黙っていた。庭の木々を渡る風の音が、間を埋めていた。  この沈黙にすら、安堵している。  守ろうとした結果がこれなら、何を守ってきたのか。  何かを言おうとして、口を開いては閉じる。互いに、それを繰り返した。 「……何から、話せばいいか分からない」  そう漏らした。 「私も、同じです」  クロエが小さく笑った。ぎこちないが、確かに笑みだった。 「体は、どうだ」 「だいぶ、良くなりました。ゼンが、毎日のように様子を見に来てくれるので」 「アークに、お前の分の政務を預けている」 「……アーク様には、無理なお願いもしてしまいました」  クロエは、目を伏せた。 「宮廷でも、色々と噂が立っているようだ」 「存じています。官吏たちの間で、私の後任の話まで出ていると。ゼンが、憤慨しながら教えてくれました」  膝の上の衣を、クロエの指が握った。 「情けない話です。自分の我儘《わがまま》一つで、周りにまで迷惑をかけて」 「お前は、言うべきことを言った」  クロエが、驚いたように顔を上げた。その表情に、昔の面影が重なった。 「本当に、そう思われますか」  言葉つきが、また硬くなった。 「あの日、天使の布陣に、一箇所だけ隙がありました。そこを抜けられたのが自分の力だったのか、今も分かりません。分からないまま、この立場に居座り続けている。それこそ、無責任なのではと」  同じことを、前にも聞いた。  あの時は、泣きながらだった。 「お前の腕は、本物だ」  迷いなく、そう答えた。 「あの日の任務だけではない。それ以前も、それ以後も――」  言いかけて、止まった。  前線に出してから、私が見ていたのは報告書だ。 「……近くで見ていた、とは言えないな」  クロエがこちらを見た。 「だが、その隙を見つけたのも、真っ先に馬を出したのもお前だと書いてあった。私が仕組んだのなら、隙の場所をお前に伝える者が要る」  クロエは、衣の皺を指で撫でている。 「……分かりません。それが本当だからなのか、私を慰めるためなのか」  卓に目を落とした。 「確かめる方法が、ないんです。陛下に伺えば、そうだと仰る。アーク様に伺えば、庇われる。誰に聞いても、同じです」  クロエは、窓の外へ目をやった。 「……今日は、そういうことにしておきます」  庭の方を見たまま、言葉が続いた。 「木蓮が、咲きました」 「そうか」 「お部屋にいらした日には、まだ蕾《つぼみ》でした」  半月分の日数を、花で数えている。  また、間が空いた。今度は、埋めようとしなかった。 「一つだけ、お願いがあります」 「何でも」 「これから先、私に関わる決定は……せめて、事前に一言、お聞かせいただけますか」  ささやかな願いだった。 「約束する。今後は、必ず」 「言葉だけでは、正直、まだ信じきれません」  厳しい言葉のはずなのに、口調に棘《とげ》はなかった。 「ですが、今日、こうして話せたことは……悪くなかったです」 ◆  日が少し傾いていた。  辞去の時が来て、椅子から立ち上がった。  懐から、小さな包みを取り出す。 「これを。あの頃、この庭で採れた実だ。宮の庭にも植えさせて、厨房に漬けさせた。好物だったな」  木の実の砂糖漬けだった。  クロエは、目を見開いて包みを受け取った。 「……覚えて、いらしたんですね」 「毎年、作らせていた」  差し出しかけた手を、途中で止めた。  クロエは、卓に手をつき、ゆっくりと腰を上げた。  一歩下がり、扉への道を空けた。 「五日後、また来る。体が優れなければ、遠慮なく断ってくれ」 「……お待ちしています」  戸口で振り返ると、クロエは目を伏せたまま、小さく頭を下げた。  その一礼を見届けてから、屋敷を後にした。  見上げると、宮の上の帯が、高くなっていた。  馬を、急がせなかった。

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