義井映日 / 第11話

第10話 選ばせる痛み

第10話 選ばせる痛み   あの日から、五日が経っていた。屋敷を訪ねる約束の朝、机の上の指輪を懐へ戻した。  朝議の席で、扉の開く音がした。クロエだった。  衣擦れの音一つで、居並ぶ重臣たちの顔が、一斉にそちらを向いた。  足取りに迷いはない。療養に入る前より、むしろ速い。  どよめきが走る。  末席の重臣が、こちらを見ていた。今日は、私も目を逸らさなかった。  クロエは、私が戻させた椅子の前で足を止め、深く一礼した。 「長らく職務を離れ、皆様にご心配をおかけしました。本日より、正式に復帰いたします」  左頬の文様は、色を取り戻していた。立ち姿も、以前と変わらない。  席を立ち、クロエの前へ出た。懐から指輪を取り出す。 「これは、お前のものだ。副魔王としての権限を、正式に返還する」  公の場に相応しい硬さを崩さぬまま、クロエの手を取り、指輪を通す。  輪の内側に、遊びがあった。前より、細くなった指。  言うべきことが、いくつもあった。ここでは、一つも言えない。 「謹んで、お受けいたします」  クロエの声も、崩れなかった。  どこからか、床を踏み鳴らす音がまばらに起こった。  朝議が終わると、クロエは一礼して、重臣たちに混じって出ていった。  廊下に出ると、宰相が寄ってきた。 「副魔王殿がお戻りになって、何よりです」  含みのある言い方だった。だが、顔には安堵が出ていた。あの日、諫言《かんげん》してきた男と同じ顔だった。 ◆  夕日が、屋敷の居間を橙《だいだい》色に染めていた。  出迎えたクロエの声に、張りが戻っていた。 「境界の砦の視察団に、志願しました」 「大戦の跡が残る境界沿いは、今も不穏な気配が絶えません。副魔王として、この目で確かめておきたいのです」  行くな、と言えば済む。  言えば、この者は行かない。 「――危険はないのか」 「多少は。ですが、これは自分で決めたいのです」  自分で。その一言に、込められた意味が分かった。 「分かった。だが、報告だけは欠かさず」 「もちろんです」  クロエの笑みから、ぎこちなさが消えていた。 「不安、ではないのですか」  問われて、少し考えた。 「不安はある。それでも、お前の判断を信じたい」 「ありがとうございます。……そう思うことに、します」  五日前も、同じ言い方だった。 「一つ、聞いてもいいか」 「何でしょう」 「なぜ、よりによって境界沿いなのだ。他にも、務まる場所はあるだろう」  クロエは間を置いてから答えた。 「一番、荒れている場所だからです」  言い切った。 「誰かが行かねばならないなら、私が行きたい」  クロエは、窓の外の夕日を見た。 「……正直に申し上げれば、まだ怖いのです。この身が本物なのか、自分でも分かっていません」  指先が、左頬の文様に触れた。 「だからこそ、誰の手も借りずに行きたいのです」  黙って頷いた。 ◆  執務机の隅、護衛を増やす書付に手が伸びかけては、止まった。  代わりに、出立の朝、クロエを呼び出した。 「護衛の数は、お前に一任する。必要な分だけ、好きに動かせ」 「ご配慮、感謝します」  誰を連れて行くのかは、聞かなかった。  馬に跨《またが》り、隊列を率いて発つ後ろ姿を、城門で見送った。  手綱を握る手は据わっていた。  見えなくなるまで、城門に立っていた。 ◆  二日目の夜、報告が届いた。  境界の砦に到着。異状なし。以上。  それだけの、短い文だった。  約束は、守られている。 ◆  扉の鳴り方で、悪い報せだと分かった。  三日目の、まだ日も昇りきらぬ時刻。早馬の急報だった。 「昨夜半、境界の砦の東。視察団が、何者かの襲撃を受けました」  差し出された書状を、伸びた爪が裂いた。 「数は。被害は」 「襲撃側の数は不明。視察団は砦へ後退した模様です」 「クロエは」 「そこまでは、まだ」  床を蹴って駆け出しそうになる。堪えた。信じたい、と言った。  地図を持ってこさせた。 「現地までの最短路を。精鋭を十名、すぐに支度させろ」  鎧を着けていると、報せを聞きつけた宰相が、息を切らして現れた。 「陛下、まさかご自身で――」 「案ずるな。誰かに任せて、後悔するくらいなら、自分の目で確かめる」  宰相は口を閉じ、背後に回った。  留め具を締める手つきは、慣れていた。父上にも、こうしていたのだろう。  精鋭が揃うまでの間、地図を睨んだ。境界の砦まで、早馬なら一晩。  剣を腰に佩《は》き、厩《うまや》へ向かった。  アークが、そこで待っていた。 「留守を頼む」  父上が、最後に私に残した言葉だった。  馬に飛び乗り、鷹眼宮《ようがんきゅう》の門を駆け抜けた。

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