義井映日 / 第22話

第21話 凪の日

第21話 凪の日   侯爵の行方は、依然として掴めていない。執務机には、片付かない報告書が積まれたままだ。昨日の朝議にも、目を逸らした顔が並んでいた。何事もなく、終わった。  窓を開けると、宮の上の帯が、高い所で薄くなっていた。 「今日は、何も予定がない」  珍しく、そう告げると、キリアンが一瞬、驚いたように瞬きをした。 「畏まりました。緊急の用件以外は、お通ししません」 「緊急の用件は、あるか」 「ございません」 「クロエは」 「後ほど、お連れいたします」  程なくして姿を見せたクロエも、目を丸くした。 「陛下が、そう仰るのは初めて聞きました」 「たまにはいいだろう。付き合え」 「断る理由もありません」  軽く肩をすくめてみせる。 ◆  クロエと向かったのは、あの書庫だった。廊下の途中で、重臣が二名、道を空けた。今日は、二名とも頭を下げた。朝議で目を逸らした顔だった。  ゼンが、扉の外に控える。 「あの日、読み残した頁があります」  クロエが引き出したのは、あの日の索引の、二つ前の棚から取った一冊だった。破れ目の手前を辿っていき、十数枚戻ったところで、手が止まる。  断面に触れた。切り口は、こちらを向いている。先を切った時に、手前まで刃が届かなかったのだろう。  呼び子の名が、一度だけ。  王家の者が、独りきりの時に――  そこで、途切れていた。 「独りきりの時に、何が起きるのでしょう」  クロエが、そこを指でなぞった。 「続きは、切られている」 「陛下は、独りでしたか」  答えられなかった。 「消し忘れも、この程度です。それでも、名は残っています。無かったことには、できていません」  クロエは頁を閉じ、その上に手を置いたまま続けた。 「自分と、あの影は、繋がっているのだと思います」 「お前と、私も、似たようなものかもしれないな」  口にしてから、そうかもしれない、と思った。どちらも、誰かの願いでここにいる。  クロエが顔を上げた。しばらく、どちらも黙り込んだ。 「そういえば」  別の一冊を開きかけて、クロエが切り出した。 「陛下は、幼い頃、何が好きだったのですか。私は、案外知らないことが多いと、最近気づきました」 「そうだな。甘い菓子が好きだった。乳母が、よく作ってくれた」 「意外です。もっと、堅苦しいものがお好きなのかと」  からかうような口調に、思わず笑ってしまった。 「お前こそ、何が好きだった」 「蛍を、追いかけるのが好きでした」 「知っている」 「陛下も、覚えていらっしゃいますね」  顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。 「乳母様のお菓子は、どんな味でしたか」 「覚えていない。味は、思い出せないものだな」  渋い、と言われた茶を思い出した。 「では、今度は私が作ります。腕は、保証できませんが」  昼が過ぎ、書庫の陽が動いた。誰も、この扉を叩かない。 「他には、何か覚えていますか」  身を乗り出す気配がした。 「お前が、花のことで叱られて、床に座り込んで泣いたこともな」 「それは、忘れてください」 「無理な相談だ。あの時の泣き顔は、なかなか見物だった」 「兄さま……!」  抗議の声に、こちらも堪えきれなくなった。 「では、私も一つ。陛下が、剣の稽古で転んで、それを隠そうと必死だった話をしてもいいですか」 「それは、誰から聞いた」 「アーク様です」 「あの男、余計なことばかり覚えている」  森の話も、この男から聞いたと言っていた。クロエが、声を立てて笑う。  侯爵のことは、今日は聞かなかった。 ◆  本を閉じる音を合図に、庭へ足を向けた。ゼンが、少し離れてついてくる。  廊下はもう暗く、灯りをつける者と二度すれ違った。いずれも、頭を下げて行く。 「今日は、何も起きませんでしたね」  ゼンが、後ろからそう言った。 「そういう日もある」  庭に出ると、ゼンは門の方へ下がった。  庭の隅で、庭師が石を並べ替えていた。二十日前に折れた枝の跡は、もう塞がっている。悪魔の体と同じだ。半日では済まないが、いずれ塞がる。  夕陽が、クロエの輪郭を橙色に縁取っていた。琥珀の目が、その色を映して淡く揺れる。昼の熱がまだ残る風の中に、涼しさが滲み始めていた。 「穏やかですね」 「ああ」 「こういう時間が、これからも続けばいいと思います」  ぽつりと零れた言葉に、頷き返した。 「そうできるように、したい」  クロエが少し驚いたように、こちらを見上げた。それから、左手の指輪にそっと触れる。 「この指輪を、返していただいた時」 「ああ」 「あの時はまだ、自分がこれを受け取る資格があるのか、分かっていませんでした」  石の色が、傾いた光を吸って、いつもより深い紫に見えた。 「今は」 「今は」  少し、間があった。クロエが、指輪を回す。  外れない。 「今は、私のものです」  あの朝、この指に通した時は、輪の内側に遊びがあった。  言うべきことが、いくつもあった。ここでは、一つも言えなかった。  今は、言える。  その手に、こちらの手を重ねた。振り払われることは、なかった。  日が落ちきるまで、どちらも動かなかった。  何も、言わなかった。  こういう日を、何度でも作ればいい。  夕暮れの光が、影を長く伸ばしている。どこかで、虫の声が始まっていた。庭の四隅にも、灯りがある。私が置かせたものだ。

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