義井映日 / 第20話

第19話 選ぶ言葉

第19話 選ぶ言葉   円卓の席から見ていると、クロエはいつも以上に姿勢を正し、淀みなく議事を進めていった。  境界の駐屯地の再配置、南部の作付け、境界の向こうへの返書。どれも、昨日までに決まっていたことだった。  一度だけ、同じ箇所を読み直した。誰も、気づかなかった。  侯爵は、今日も三番目の席にいた。議事の間、一度も顔を上げない。  最後になって、侯爵が手を挙げた。 「副魔王殿の御手を、これ以上煩わせるのも心苦しい。書面の下読みなら、我らでお引き受けできますが」  周りから、頷く音が幾つか上がった。 「お気遣いは、痛み入ります。ですが、副魔王の名で出す書面です。自分で目を通します」  クロエは、顔色を変えずに断った。侯爵が、深く頭を下げる。  助けを、求められなかった。 「クロエ」  朝議の後、廊下で声をかけた。 「何でしょうか」  振り返ったクロエは、隙のない微笑みを浮かべていた。 「体調は」 「問題ございません。ご心配、痛み入ります」  そうか、とだけ返した。去っていく背を、見ていた。  廊下の途中で、重臣が二名、話をやめた。クロエは、歩調を変えなかった。 ◆  執務室の扉を、キリアンが叩いた。侯爵家の出納を当たっているが、まだ何も出てこないという。 「ただ、噂を撒いた使用魔が、一匹だけ口を割りました。雇い主の家紋を見た、と。それと、侯爵家が、后候補の家に二度、使いを出しております」 「后の件か」 「はい。急かしている側と、候補を出している側が、同じ家に見えます」  筆を置きかけて、また持ち直す。 「お前の考えを聞きたい。仕組みの話ではなく」 「自分などの意見でよろしければ」  キリアンは扉の方を確かめてから、報告を脇へ置いた。  机の隅の束を指した。十年分の縁談が、埃を被ったまま積まれている。 「目を通したことがない。構わず言え」 「后とは、血を繋ぐための務めにすぎません。ですが、陛下の心がどこにあるか、周りは既に薄々気づいているかと」  書きかけの字が、滲んだ。 「視察団の一件で、陛下御自らが救援に向かわれたこと。謁見の間で、真っ先に前へ出られたこと。政務を後回しにされたこと。弔いに、御自ら足を運ばれたこと」 「もし、私が周りに悟らせてしまっているのなら、クロエの立場を、余計に難しくしているかもしれない」 「逆かもしれません」  キリアンが、顔を上げた。 「お心が、隠しようもなく伝わっていること。そして何より、クロエ様ご自身が、副魔王としての実を積み重ねてこられたこと。その両方が、軽んじる者を少なくしているのだと思います」 「お前は、随分と物を見ているな」 「買い被りです」 「お前なら、どうする」 「自分には、守る者がおりません」  キリアンが、報告に目を落とした。 「ですから、答えられません」  そこで一度、言葉が切れた。 「昨日、名を出すなと命じられました。守るために隠すのは、こちらの仕事です。陛下がなさると、話が別になります」  筆を置いた。  証拠が揃うのを待つ間に、クロエが削られていく。 「侯爵に、召喚の使者を出せ」  キリアンは、それ以上踏み込まず、深く一礼して退室した。  束を、引き出しに入れた。机の上が、広くなった。 ◆  政務室の扉の下から、灯りが漏れていた。  開けると、山積みの紙に埋もれるようにして、クロエが黙々と筆を動かしていた。 「陛下」  顔を上げたクロエの目の下に、隈があった。 「朝議で、同じ箇所を読み直していた」  クロエの手が、止まった。 「……申し訳ございません。少し、頭を冷やしたくて」 「昨日は、悪かった」 「陛下が謝ることでは」 「いや」  クロエの言葉を遮った。 「后のことは、まだ何も決めていない。だが、一つだけ、はっきりさせておきたい。誰を選ぶにせよ、お前をこの場所から追い出すつもりは、微塵もない。それだけは、信じてほしい」  信じてほしい、と口が言った。  クロエはしばらく黙っていたが、やがて、小さく息を吐いた。 「信じたい、と思っています」 「昨夜、独りで何を考えていた」  クロエが口を開くまで、間があった。 「自分に何ができるか、を考えていました。この立場を守るために、何を証明すればいいのか。……何を並べても、足りません。自分が何者か、分からないままですから」 「それは、書庫では出てこなかった」 「はい。ですから、アーク様が戻られたら、まず伺います。書庫の外にも、当たる先はあるはずです」 「お前らしいな」 「そう、でしょうか」 「昔から、そうだった。困難があるほど、お前は自分の足で立とうとする」  クロエが、驚いたように瞬きをした。強張っていた頬が、ようやく緩んだ。 「陛下に、そう言っていただけると、少し勇気が出ます」  照れくさそうに、クロエが筆を取った。 「こんなに溜め込んでいたのか」  傍らの紙の山に、目をやる。 「后の件で、しばらく進められずにいたので……。ですが、もう大丈夫です」 「半分、寄越せ」 「そのようなこと、陛下にさせるわけには」 「元は、私の分だ」  山を、半分こちらへ寄せた。判を押すだけの決裁が、大半だった。  一枚ずつ、判を押していく。  王の朱は、灯りの下では黒に近い。同じ朱が、クロエの分の紙にも並んでいた。どちらが押したのか、朝には分からなくなる。  三十枚ほどで、腕が重くなった。  クロエは、同じ速さのままだ。  毎日、これを独りでやっている。  時折、こちらの手元を見ているのが分かった。目を上げると、逸らされる。  窓の外は、すっかり暗くなっていた。 「明日は、私が朝議を早く切り上げます」 「なぜ」 「陛下のお手が、空きますから」  手を止めて、クロエが呟いた。 「今日は、ありがとうございました」  小さく頷き返し、また手元に戻る。  判を押す音と、筆の音。  どちらも、止まらない。

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