義井映日 / 第19話

第18話 水面下

第18話 水面下   翌朝、宰相を執務室に呼び出した。アークにも使いを出したが、まだ戻らないという。 「昨日の后の件だ。なぜ、あれほど急に切り出した」  宰相は、少し言い淀んでから答えた。今日ばかりは、目が泳いでいた。 「実を申しますと、この話自体は、数ヶ月前から重臣たちの間で燻っておりました。ですが、視察団の襲撃、謁見の間への乱入と、立て続けに事件が起きた中で、后様のことまで持ち出す時ではないと、私の判断で控えておりました」 「数ヶ月前から、と。では、なぜ今になって表に出した」 「正直に申し上げれば、急かされました。数名から、これ以上先延ばしにはできないと」  重臣たちは、この男が折れるのを待っていたのだろう。 「その者たちの名は」  宰相は、一瞬躊躇《ためら》ってから、名を挙げた。聞き覚えのある家名ばかりで、そのうち一つが、キリアンの写しにあった三家と重なる。  宰相は、言い方を選ぶように間を置いた。 「僭越《せんえつ》とは存じますが……副魔王殿のことを、蔑ろにしろと申し上げているわけではございません。ただ、王家の血を繋ぐという務めは、また別の話として、避けて通れぬのです」 「分かっている。だからこそ、軽々には決められない」 「畏まりました。ですが、あまり長くは、お待たせできない話かと」  退室する間際、宰相はこちらを窺うように、一度振り返った。 「陛下……差し出がましいことを承知で申し上げますが、この件、早々にご決断いただいた方が、陛下ご自身のためにもなるかと」  深く頭を下げて、出ていった。 ◆  クロエが議事を進める朝議の場に、ローデンヴァルト侯爵《こうしゃく》の姿があった。前から三番目の席にいる、柔和な笑みを絶やさない初老の男だった。  挨拶の折、侯爵は私の前まで進み出て、深々と一礼した。疑う余地もないほど、恭しい物腰だった。胸元の留め具に、家紋が彫られている。朝議の席で見たのは、これだったか。 「陛下におかれましては、日々の激務、心よりお察し申し上げます。何かお力になれることがあれば、いつなりとお申し付けを」  軽く頷きを返しただけで、それ以上の会話は交わさなかった。  去り際、侯爵がクロエへ向けた一瞥にだけ、笑みがなかった。疑って見ているから、そう見えるのかもしれない。  朝議が終わり、廊下でクロエと並んだ。 「侯爵、ずいぶんと愛想が良かったですね」 「ああ。少し、気味が悪いくらいにな」 「陛下も、そう思われましたか」  クロエが、悪戯っぽく笑った。 「挨拶で手を取られた時、侯爵の爪が、短く削ってありました。悪魔にしては、珍しいです。あの笑顔の下に、何かありそうで」 「お前もか」  賊の袖口から覗いていた、鉄の爪を思い出した。クロエは、賊の爪のことを知らない。 ◆  朝議の後、キリアンに、あの留め具の紋を調べさせていた。  昼過ぎ、執務室の扉が慌ただしく叩かれた。キリアンだった。 「陛下、例の紋の件です。ローデンヴァルト侯爵家。陛下のお見立て通りでした」  墨の染みた指で、写しを机に置く。 「何で確かめた」 「賊の装備の紋を、当家の徽章《きしょう》と照合しました。押収した分と、一致します」  宰相が挙げた家名の中にも、ローデンヴァルトがあった。 「宰相に、后の話を急かした家でもある」 「はい。偶然とは思えません」 「証拠は」 「まだ、決め手に欠けます。ですが、賊の装備、噂の出所、后の話と、どの糸も、この家へ向かっています」 「引き続き、慎重に証拠を固めろ。それと、侯爵の周りに、クロエの名を出すな」 「――畏まりました」 ◆  日が傾く頃、ようやく書庫へ行った。机の端に、器が二つ並んでいた。一つは、とうに冷めていた。  向かいに腰を下ろすと、クロエは本から顔を上げ、何も言わずに、冷めた方をこちらへ寄せた。  后の話を、伝えた。 「后様、ですか」 「知っていたのか」 「議事の後、幾名かが残って話しているのを、何度も見ました。近づくと、終わっています。表の場では、一度も耳にしませんでした。本来なら、真っ先に知らされてしかるべき身のはずですが」  クロエは、手元に目を落としたまま言った。 「誰かから、直接何か言われたか」  クロエの口元が、一瞬、固くなった。 「重臣の方々に、それとなく探りを入れられました。『陛下の御心境はいかがか』と。答えようがなく、曖昧に躱すしかありませんでした」  探りの矢面に、クロエを立たせていた。侯爵のことも、まだ言っていない。 「すまない。本来なら、真っ先にお前に相談すべきことだった」  クロエは首を振った。 「いいえ。これは、陛下の落ち度ではありません。決まってもいないことを、わざわざお伝えいただく道理もありませんから」  理屈では、正しい。 「本音を、聞かせてくれないか。今、何を思っている。取り繕わずに、聞きたい」  クロエは口を噤み、しばらく目を彷徨わせてから、ようやく口を開いた。 「正直に申し上げれば……怖いのです。自分が、いずれこの場所から押し出されていくところを、想像してしまいます。議事の後に残って話す、その輪に、自分は入っていない。副魔王として、本当の意味では、まだ認められていないのかもしれません」  卓の上で、クロエが指を組んだ。 「そんなことは――」  否定しようとして、言葉に詰まった。 「陛下が、お決めになることです。自分に、口を挟む権利はありません」 「クロエ。辛いか」  クロエは、俯いたままだった。やがて、小さく息を吸う音が聞こえた。 「……少しどころでは、ありません。頭では、分かっているのです。陛下には陛下の立場があり、いずれ避けられない話だと。それでも、今は、うまく飲み込めそうにありません」  組んだ指に力がこもり、声が震えた。 「この先、副魔王として隣に立ち続けられるのか、それとも、いずれ退くべき身なのか。……まだ、何も見えません」  組んでいた手がほどけ、衣の裾を握りしめた。 「今日は、もう休ませていただきます」  深く一礼して、クロエは扉へ向かった。扉の前で一度だけ足を止め、何も言わずに、出ていった。  閉じられた扉を、しばらく見つめていた。  立ち上がった。  扉まで、三歩。  座り直した。  寄せられた器を取り、飲み干した。  渋くは、なかった。 ◆  執務室に戻り、机の隅の束を引き寄せた。  埃を払う。一番下の一通を、引き抜いた。  十年前の日付だった。  読まずに、戻した。  埃を払った分だけ、束が目立つ。  伝えなかったのではなく、伝えることすら思いつかなかった。

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