義井映日 / 第12話

第11話 届く手

第11話 届く手   境界の砦に近づくにつれ、焦げた木々の匂いが強くなった。それに混じって、鉄錆に似た臭いが、風に乗って流れてくる。  手綱を握る指先で、爪が鈍く光っていた。  木立が切れた。  外壁の手前に、視察団の野営地があった。  天幕の骨組みが、根元から炭になっていた。紫炎ではない。もっと白い、乾いた焼け方だった。  炭の芯が、まだ青白く燻《くすぶ》っていた。  地面の抉《えぐ》れは、爪の跡だ。三本。悪魔のものより、深く、細い。  折れた槍。引き裂かれた旗印。まだ乾ききらない血痕。  どこからか、低い呻《うめ》き声が聞こえていた。馬の嘶《いなな》きも、いつもより甲高い。  隊員たちが、まだ辺りに目を配っていた。木立の奥を睨む者もいる。  鞍から下りると、膝が笑った。  駆け寄ってくる影があった。 「陛下!」  クロエだった。土埃にまみれ、左腕には血の滲んだ布が巻かれている。だが、足はしっかりと地を踏んでいた。  左頬の文様が、淡い。  その後ろに、ゼンとサイファーの姿があった。  連れて行ったのは、この二名だったか。 「無事、なのだな」 「はい。自分は、この通り」  伸びていた爪が、引いていった。 「何があった」 「昨夜半、火の気のない天幕から、一斉に火が上がりました」 「数は」 「暗くて、分かりません。覆面をしていたようにも見えました。天使側の残党なのか、それとも別の何かなのか」  クロエの顔が曇った。 「隊員に、二名の負傷者が。命に別状はないと、思います」  天幕の下で、若い兵が自分の脚に包帯を巻いていた。手が震えている。血が、まだ止まっていない。  この程度の傷なら、悪魔の体は半日で塞ぐ。  それが、塞がっていない。  その傍らに、膝をついた。 「痛むか」 「――いえ」  王に、痛いとは言えない。  立ち上がると、目はクロエの腕へ向いた。 「その傷は」 「かすり傷です。それより、御自ら出向かれるとは」 「その腕を、見せてくれ」  クロエは少し迷ってから、布の端を差し出した。  布を解いた。  傷は、思っていたより深かった。  縁が、白く焼けている。天幕の骨組みと、同じ色だった。  私の掌が、熱を持った。  周りの者が、一斉に下がる。  クロエが、傷を負った左手で、私の手首を押さえた。  その指に、指輪があった。 「陛下」  熱が引いた。 「かすり傷、ではないだろう」 「痛みには、慣れておりますので」  白い縁が、寄ろうとする肉を押し返している。 「焼くぞ」  クロエが頷いた。  指先に、紫を細く灯す。その縁だけを、なぞっていく。  皮の焦げる匂いが立った。クロエの腕が、一度だけ跳ねた。声は出さない。  なぞり終えると、傷が内側から寄り始めた。  布を巻き直す。  幼いクロエの擦り傷は、立ち上がる前に塞がっていた。 「陛下が、そのようなことを」 「これくらい、させてくれ」  クロエは黙って私の手を見ていた。 「今夜は、砦に留まる。負傷者を連れて戻るには、日が落ちすぎている」 ◆  若い兵の脚も、同じように焼いた。今度は、声が上がった。  それから、ゼンとサイファーと共に、野営地の周囲を回った。  土に手をつき、爪の跡を指でなぞった。  三本の間が、どれも同じ幅だった。  生き物の指は、こうは揃わない。  サイファーが、その先を指した。 「足跡が、途中で消えています。妙な話ですが、まるで空へ逃げたかのように」  ゼンが低く言った。 「皆が砦へ退く間、クロエ様がお一人で敵を止めておられました」  本人からは、一言も聞いていない。 「引き続き、周辺の警戒を頼む」  二名は頷き、配置へ戻っていった。  炭になった骨組みに、もう一度目をやった。  天使なら、翼の跡が残る。  ここには、爪の跡しかない。  木立の奥に、まだ何かの気配がある。 ◆  砦の中庭で、火が焚かれていた。  その傍らに座っていると、クロエが来て、腕を庇いながら隣に腰を下ろした。  どちらも、何も言わなかった。薪の爆ぜる音だけがしていた。  クロエが空を見上げた。 「星が、綺麗ですね」  敵を止めていたことを、聞くべきかと思った。  聞けば、探ったことになる。  星から目を離さずに、クロエが続けた。 「正直、今日は駄目かと思う瞬間が、何度もありました。それでも、まだ、こうして星を見られている。それだけで……」  薪を一本、火にくべた。 「鷹眼宮《ようがんきゅう》からは、こんなに星は見えない」 「危ないことばかりですが、こういう場所が、案外好きなのかもしれません」 「お前らしい」  クロエが、布を巻いた腕に目を落とした。 「焼く前に、仰ってくださいましたね」 「約束した」  クロエが、少しだけ笑った。  火に照らされたその横顔を、見ていた。 ◆  翌朝、負傷者を伴って砦を発った。  帰りの道中、隣に馬を並べたクロエが口を開いた。 「昨日は……いえ」  言いかけて、しばらく黙った。 「陛下ともあろう方が、自ら戦場まで駆けつけるなど、本来、許されることではありません」  それから、ふっと表情を緩めた。 「ですが、今回だけは。次からは、せめてもっと供を増やしてください」  頷いた。  後ろで、若い兵が脚を庇いながら、馬を進めている。  夕日に染まる街道を、並んで進んだ。  馬の歩幅が、いつの間にか揃っていた。

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