水無瀬 弥生 / 第28話

第17章:覚えているということ

東京の雨は、いつの間にか上がっていた。 濡れたアスファルトが、街灯の光を鈍く反射している。空気は冷たく澄んでいて、雨の後にだけ残る独特の匂いが、街全体を覆っていた。それは、何かが終わった後の匂いだった。あるいは、何も終わっていないことを証明する匂いだった。 雑居ビルの屋上で、《《城島| じょうしま》》は煙草に火をつけた。火が紙を舐める音が静かな夜に響く。彼の手元には、《《綾| あや》》の部屋から持ち出した端末が置かれている。それは彼が「最後の鍵」だと信じてきたものだった。何日も、何週間も彼はこの端末を解析し、その中に隠されたデータを探し続けた。彼はこれが彼女の残した「証拠」であり、巨悪を倒すための「武器」だと信じていた。 しかし、今やその端末は、ただの電子ゴミに過ぎない。ジフンの言葉が、彼の耳の中で何度も繰り返される。 「お前が今、手にしていると思っているデータは、私がわざと流した『フェイク』だ」 その言葉は、城島の何年もの執念を一瞬で無効化した。 彼はその端末を手に取り、ビルの谷間へと投げ落とした。ポチャンという小さな水音がして、それは都市の泥の中に沈んだ。水しぶきは一瞬だけ上がり、そして消えた。それと同じように、彼の長い戦いも、何の痕跡も残さずに終わった。 煙草の煙が冷たい風に流されていく。城島は空を見上げた。雲の切れ間から、かすかな冬の光が差し込んでいる。それは、彼が追い求めてきた「正義」の光ではなく、ただの自然の光だった。その光は、誰に対しても平等に降り注ぐ。善人にも悪人にも。勝者にも敗者にも。 ジフンとマザー・ハンは今ごろ、新たな楽園で祝杯を挙げているのだろう。彼らは法の届かない高みで、これまで通りに生き続ける。いや、これまで以上に豊かに。綾の死や首相の死は、何も変えなかった。彼女の捧げた命は、システムの歯車の一部として消費され、何の痕跡も残さずに消えた。彼女の名前は、行政の記録からも消えている。彼女の存在を覚えている人間は、この街にどれだけいるだろうか。 城島はポケットから1枚の写真を取り出した。綾の幼い頃の写真。屈託のない笑顔。彼女はこの写真が撮られた時、何を思っていたのだろう。何を夢見て、何を信じていたのだろう。その問いに、彼は答えを持っていなかった。ただ、彼女がこの笑顔のまま、この世界を信じたまま、死んだことだけは確かだった。 彼は写真を手にしたまま、しばらく動かなかった。風が彼の髪を揺らす。それは、彼に何かを語りかけるようだったが、彼にはその言葉を聞き取ることができなかった。 それで十分なのか。その問いに彼は答えを持っていなかった。ただ彼は煙草の火を消し、コートの襟を立てた。冷たい空気が彼の頬を刺す。その痛みだけが、彼がまだ生きていることを教えていた。 世界は変わらない。教団が1つ潰れても、また新たな闇が生まれる。いや、教団は潰れてすらいない。ただ形を変え、場所を変え、より豊かに、より強固に生き続けている。彼らは今日もどこかで、新しい信者を探している。新しい「綾」を、新しい「健次」を。そして、その連鎖は永遠に続く。 城島は、自分が何も変えられなかったことを知っていた。彼の正義も、彼の執念も、彼の覚悟も、すべては巨悪の前では無力だった。彼はそれを認めることで、ようやく前に進むことができる。 地上の天国など、どこにも存在しない。あるのは、搾取する者と搾取される者という、この世界の冷酷な構造だけだ。そしてその構造は永遠に変わらない。それは彼が警察官として、そして探偵として、何年も見続けてきた真実だった。 城島は最後にもう一度、空を見上げた。雲が流れ、月が顔を覗かせている。その月は、今日も変わらず、この街の闇を照らしている。そして、その闇の中で誰かが泣いている。誰かが救いを求めている。 彼はその声を聞くことはできなかった。だが彼は知っていた。その声が必ずあることを。 彼は静かに雑踏の中へと歩き出した。彼の背中は孤独で、冷たく、そして何の意味も持たなかった。彼は何も救えなかった。何も変えられなかった。ただ1人の少女の死を、自分の記憶の中にだけ、留めておくことができる。 それだけで彼は生きていく。 終わることのない過去。いや、終わることが許されない。なぜなら悪は永遠に生き続けるから。そして、その悪と向き合う者たちもまた、永遠に生き続ける。たとえ彼らが何も変えられなくても。 城島の足音が、濡れたアスファルトに吸い込まれていく。 彼は今夜もまた、この街の片隅で誰かのために、何かを探し続けるだろう。 その先に何もなくても。
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