水無瀬 弥生 / 第29話
第18章:光のあった頃(最終話)
その少女はいつも窓辺に座っていた。
東京の外れ、工場の排煙が立ち込める古い団地の3階。窓ガラスは曇り、外の景色はいつも霞んでいた。それでも彼女は、両手をついてガラスに額を押し付け、外を見ていた。何を見ているのか、自分でもよくわからなかった。ただ、そこに「外」があるということが、彼女にとっては大切だった。
名前は《《綾| あや》》。7歳だった。
彼女の家にはいつも静寂が漂っていた。母親はソファに伏せったまま、一日中テレビの音だけを流している。父親は帰ってこない日が続いた。帰ってきても、酔った足音と共に何かを壊す音が聞こえ、その後にまた静寂が戻る。
綾はその静寂の中で、自分が存在していることを確かめるために、よく自分の手のひらを見つめた。小さな手。爪の先は少し欠けている。指先には、学校で使うクレヨンの色がうっすらと残っていた。赤と青と黄色。それらは彼女の世界のすべての色だった。
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ある日、綾は学校の帰り道で1匹の子猫に出会った。
駐車場の隅、廃材の積まれた場所で、その子猫は小さな声で鳴いていた。毛は汚れ、片方の目は少し腫れている。体は震えていて、その震えは冷たさと飢えと、そしておそらく孤独から来るものだった。
綾はしゃがみ込み子猫を見つめた。子猫もまた綾を見上げた。その目は助けを求めるようでもあり、諦めにも似た静けさを帯びていた。
「……一緒にいる?」
綾は自分の声が聞こえた。それは、誰かに向けて発した言葉というより、自分自身に問いかけるような響きだった。
子猫は微かに鳴いた。
綾は自分のランドセルを開け、中から自分の分の小さなパンを取り出した。それを小さくちぎり、子猫の前に置いた。子猫は躊躇いながらも近づいて食べ始めた。
その時、駐車場の奥から中年の男の声が聞こえた。
「おい、あんな汚い猫に触るなよ。病気がうつるぞ」
綾は振り返らなかった。ただ、子猫が食べ終わるのを待った。
「帰りなさい、お前の家はあっちだろ」
声は彼女の背中に突き刺さった。綾はそれでも動かなかった。子猫は彼女の指先を鼻先でそっと触れた。それは世界で一番小さな「ありがとう」だった。
やがて綾は立ち上がった。子猫も立ち上がったが、彼女の後を追ってはこなかった。その場に座り、彼女の背中を見送っていた。
家に帰ってから、綾は自分の手のひらを見つめた。子猫が触れた指先。そこには何も残っていなかった。けれど、彼女はその指先を何度も何度も撫でた。
その夜、綾は窓の外を見た。月が雲の切れ間から顔を出していた。月はあの子猫を見ているかもしれない。そう思うと、少しだけ心が温かくなった。
小学校3年生の時、綾は図書館で1冊の本に出会った。
薄い絵本のような本だった。表紙には1羽の鳥が描かれていた。傷ついた羽で、それでも空を飛ぼうとしている鳥の絵。
彼女はその本を借りて、何度も何度も読んだ。物語は単純だった。傷ついた鳥が森の動物たちに助けられ、やがて再び空へと飛び立つ話。最後のページには、鳥が空高く舞い上がる絵と、たった1行の文章があった。
「翼を傷つけたのは、あなたが飛ぶことを知ってほしかったから」
綾はその1行をノートに書き写した。そしてそのノートを、自分の机の引き出しの一番奥にしまった。誰かに見せるためではなく、自分だけのための言葉として。
その日から彼女は時々、空を見上げるようになった。飛行機雲が伸びていくのを、鳥が羽ばたくのを、ただじっと見つめていた。自分にも、いつか飛べる日が来るのだろうか。その問いに答えは出なかった。ただ、空はいつも変わらず広がっていた。
14歳。
綾は学校の帰りに、1人の少女に声をかけられた。
「ねえあなた、1人で帰ってるの?」
同じクラスの、優しそうな顔をした少女だった。綾は自分に声がかかったことに驚き、少しだけ後ずさった。
「……うん」
「よかったら、一緒に帰らない?」
その言葉は綾にとって、まるで外国語のように響いた。一緒に帰る。その単純な行為が、自分の人生にあったことがなかったからだ。
綾は何も言えずにうなずいた。2人は夕暮れの街を並んで歩いた。少女は学校での出来事や、好きなテレビ番組の話を楽しそうに語った。綾はただ相槌を打つことしかできなかった。でも、その相槌の1つ1つが、彼女の心の中で小さな花を咲かせていた。
別れ際、少女は言った。
「また明日、一緒に帰ろうね」
綾はうなずいた。その時、彼女の目の端に涙が浮かんでいた。
家に帰って、綾は自分の机の引き出しを開けた。あのノートを取り出し、最後のページに今日の日付を書いた。そしてその下に、たった一言だけ書き加えた。
「今日は、とてもいい日だった」
それは彼女の人生で初めて書いた、自分のための日記の始まりだった。
16歳。
綾はアルバイトを始めていた。コンビニのレジ。深夜の時間帯。そこは誰も彼女に話しかけず、彼女も誰にも話しかけない、静かな場所だった。
ある晩、1人の老婦人がレジに来た。彼女は1つの小さな花束をカウンターに置いた。
「これ、あなたに」
綾は驚いた。自分に? なぜ?
老婦人は優しい目で言った。
「あなたがいつも、ここで1人で立っているのを見て。何かあなたに届くといいなと思って」
花束には小さなカスミソウが一輪、白い花びらを開いていた。それは決して豪華な花ではなかった。けれどその花は、綾の手の中でひときわ輝いて見えた。
「……ありがとうございます」
綾はそう言うのが精一杯だった。老婦人は微笑み、店を出ていった。その後ろ姿を綾は長い間見送った。
家に帰って綾はその花を、ペットボトルを切って作った花瓶に挿した。カスミソウは1週間ほどして枯れてしまった。けれど、その枯れた花びらを、彼女は捨てられなかった。1枚1枚を本の間に挟んで保存した。
それが彼女の持っていた、ただ1つの「宝物」だった。
それからしばらくして、綾は高校を卒業した。進学はしなかった。家にはその余裕がなかった。
上京することにした。それは、逃げることだったのかもしれない。何か新しいものを求めてのことだったのかもしれない。彼女自身にもよくわからなかった。
出発の朝、彼女は自分の部屋を見渡した。小さな机。窓。あのカスミソウの花びらを挟んだ本。それらは彼女の17年間のすべてだった。
彼女は本を手に取り、最後のページを開いた。そこには、彼女が14歳の時に書いた言葉があった。
「今日は、とてもいい日だった」
その文字を彼女は指でなぞった。
――いい日は、また来るのだろうか。
その問いに、彼女は答えを持っていなかった。ただ、彼女はその本を鞄にしまい、ドアを閉めた。
後ろを振り返らなかった。
窓の外では春の光が差し込んでいた。それは彼女にとって、新しい季節の始まりだった。
綾はその後の人生で、あのカスミソウのことを思い出すことがあった。
それが、自分に向けられた最後の「純粋な優しさ」だったかもしれない。そう思うたびに、彼女の胸の奥がかすかに痛んだ。
しかしその痛みは、彼女にとって「生きている証」でもあった。その痛みがある限り、彼女はまだ、誰かを信じることができる。そう信じていた。
あの老婦人のように、いつか自分も、誰かに花を贈れる日が来るのだろうか。
その問いもまた、彼女の中で小さな光として残り続けた。
そしてその光は、決して消えることはなかった。
たとえ4畳半の部屋で、すべてを奪われたその瞬間でさえも。