水無瀬 弥生 / 第26話
第15章:蟲の羽音
車はソウル市街を抜け、漢江(ハンガン)を見下ろす超高層ビルの、屋上ヘリポートへと到着した。
重厚なプロペラ音と風圧が、2人の衣服を激しくなびかせる。そこには、一族専用の真っ白なプライベートヘリが、爆音を上げて待機していた。その白は、この街のどこにも存在しない純度を持っていた――汚れを知らず、汚れを許さない、選ばれた者たちだけの色。
ジフンは母の腕を恭しく支え、ヘリのキャビンへと誘導した。革張りのシートに腰を下ろし、シートベルトを締める。扉が閉ざされると、騒音は遠い地鳴りのように抑え込まれた。ヘリは垂直に浮上し、一気にソウルの空へと舞い上がっていく。
窓の外には、朝日に照らされて黄金色に輝くソウルの高層ビル群と、雄大にうねる漢江の景色が広がっていた。地上の喧騒は、ここではすべてが無音のパノラマに変わる。信号も、怒号も、悲鳴も、泣き声も、すべてが抽象画の中の点のように、意味を失って消えていく。
高度が上がるにつれ、地上を行き交う人々も、密集する車列も、すべては小さなアリの足跡ほどの意味しか持たなくなった。
マザー・ハンは、窓ガラスに痩せた指先をあて、冷ややかに下界を見下ろした。
「見なさい、ジフン。これが我らの治めるべき地上の王国です。遠い海の向こうの、あの哀れな島国で、警察や探偵がどれほど目を血走らせて我々の影を追おうと。この高度からは何ひとつ見えない。何も届かないのです」
ジフンは微笑んだ。彼らの頭の中には、すべては通過した雑音に過ぎない。
――その絶頂の最中に。
ジフンの胸ポケットの中で、Galaxy Ultraが小さく、だが執拗に振動した。その振動は、まるでこの密室に巣食う、1匹の蟲の羽音のように、不快で、しかし無視できないものだった。
「……何事だ」
ジフンは、母に一礼するように軽くうなずいてから、ノイズキャンセリング機能のついたヘッドセットを装着し、画面にタッチした。彼の指先の動きは、この予期せぬ割り込みが、自分の計画の一部でないことを示していた。しかし、彼は決して慌てなかった。慌てるという行為は、すでに自分のコントロールを超えた事態が発生したことを認めることだからだ。
『――ハン・ジフン先生』
ヘッドホンの向こうから聞こえてきたのは、地獄の底から這い上がってきたような、低く、乾ききった男の声だった。日本語の響き。その声には何年もの間、誰かに対する執念を燃やし続けてきた者の、独特の疲労と鋭さが混ざっていた。
ジフンの背筋に、一瞬だけ冷たいものが走った。しかし、彼はそれを表情に出さなかった。
「……誰だ。どのようにしてこの回線に入り込んだ」
『俺はお前たちが殺したあの少女。《《綾| あや》》の遺体を引き取った男だ』
元警視庁刑事、《《城島| じょうしま》》だった。ジフンは冷ややかに鼻を鳴らした。彼は、この男の名前を何度か聞いたことがあった。警視庁を辞めた執念深い刑事。だが、それ以上の脅威には思えなかった。
「警察を辞めたただの探偵が、いったい何の用だ? 我々はすでに日本の法域の外にいる。法律も、国家も、我々を裁くことはできない」
『ああ、知っているさ。だが俺は法律の枠の外で、お前たちに1つだけ教えてやろうと思ってな』
「何……?」
『お前たちが信者から奪った暗号資産。そのすべての秘密鍵を復元するためのシードフレーズ……それを所有していたのは、お前たちが捨てたあの少女、綾の暗号化端末だ。彼女は知らなかった。自分が何を背負わされていたのか。だが、その無知こそが、彼女を完璧な運び屋にした』
ジフンの顔に冷笑が浮かんだ。彼はポケットから、別の小型デバイスを取り出した。それは彼が常に身につけている、いわば「最終兵器」だった。
「……その話か。ならば教えてやろう」
彼の声はこれまでになく優雅で、そして冷たかった。
「確かに父は死ぬ間際に何かを遺した。猜疑心の塊だったあの老人は、誰も信用せず、最後の鍵をどこかに隠した。だが私は、もうとっくに気づいていた。父が誰も信用していなかったことも、彼が最後の鍵をどこに隠したのかも。そして、その鍵を正真正銘の『偽物』とすり替える方法もな」
電話の向こうで城島の息が止まった。その沈黙は、ジフンにとって何よりも心地よい音楽だった。
「お前が今、手にしていると思っているデータは、私がわざと流した『フェイク』だ。本物の鍵は、もうずっと前に私の手で上書きされている。あの娘が死の間際に抱いていた端末は、ただの『陽動』に過ぎなかった。彼女は、自分が運んでいるものが何かも知らずに、死んでいった。それが彼女のすべてだ」
『な……に……?』
城島の声が初めて揺らぎを見せた。その揺らぎはすべてを失った者の、それでもなお何かを掴もうとする、虚ろな足掻きだった。
「探偵さんよ。お前の執念は評価する。だがな、我々を追い詰めたと思ったその瞬間こそが、お前の敗北の瞬間だ。この電話もそのために取った。お前の目論見がいかに無意味だったかを、直接伝えてやろうと思ってな。お前は何も掴んでいなかった。ただ、こちらの撒いた餌に食いついていただけだ」
城島の沈黙が耳元で伝わってくる。それはすべてを失った者の沈黙だった。言葉を失ったというより、言葉が何の意味も持たないことを理解した者の沈黙だった。
「これで終わりだ。お前は何も掴めなかった。あの少女の死も、お前の正義も、すべては無駄だった。いや、我々の繁栄のための、1つの通過点だったのだ。彼女と首相が死んだから、我々はここにいる。お前が追ったから、我々はより強くなった。感謝しているよ名探偵」
そのまま無音で切れた。それは、会話の終わりであると同時に、城島の執念の終わりでもあった。
ジフンはヘッドセットを外し、窓の外を見下ろした。下界のどこかで、城島はおそらく、絶望の中で崩れ落ちているだろう。あるいは、次の手を考えているかもしれない。だが、どちらでもよかった。彼らはすでに、彼が届かない場所にいる。物理的にも精神的にも、法的にも、すべての次元において。
「ジフン、どうしたのです?」
マザー・ハンが尋ねた。彼女の声には、心配の色はなかった。ただ、自分の計画に影響が出るのではないかという、最小限の関心だけがあった。
ジフンは微笑みを浮かべて答えた。その微笑みは、彼がこの瞬間を完全に支配していることの証だった。
「何でもありません、お母様。ただの蟲が1匹、潰れただけです。邪魔だった首相に消えてもらった時と同じです。私たちの道には、もう何も立ちはだかりません」