水無瀬 弥生 / 第24話
第13章:聖母の帰還
ソウル郊外の拘置所を取り囲む高いコンクリート壁は、湿った早朝の濃霧の中に重たく沈んでいた。鉄の門が重厚な金属音を立てて観音開きに解かれる。「聖母」マザー・ハンは、足元を覆う黒いウールのコートの裾を一切汚すことなく、ゆっくりとアスファルトを踏みしめた。
特定背任と脱税の罪による2年間の収監。世間や韓国のメディアは、それを一族の「失脚」であり「正義の勝利」と喧伝した。テレビのニュースでは、彼女の逮捕が「カルト撲滅の象徴」として何度も繰り返し報じられた。評論家たちは、これで教団は終わったと語り、被害者団体は涙を流して喜んだ。
だが、彼女の背筋は微塵も曲がっておらず、深く刻まれた目元の皺の奥にある瞳は、むしろ刑務所の静寂の中で冷徹な研ぎ澄まされ方を見せていた。彼女はこの2年間を「休暇」として受け入れていた。いや、それ以上に、彼女はこの時間を、自分自身を「聖母」として再定義するための、神聖なリトリートとして活用していたのだ。
彼女にとって、この2年間の禁錮など、過酷な修行でもなければ敗北の屈辱でもない。億単位の信者たちに「不当に迫害される聖母」という不可侵の神話を植え付けるための、計算し尽くされた、巡礼のプロセスに過ぎなかった。
門前には、艶消しの漆黒に塗装された、SUVのマイバッハが待機していた。後部座席のドアが滑らかに開き、ジフンが降りてくる。彼のスーツはこの冷たい朝に似合う、完璧なまでの無機質さを帯びていた。
「お帰りなさいませ、お母様」
ジフンの声には、肉親に対する情感の欠片もなかった。あるのは、巨大なグローバル企業のCEOが、最高経営責任者に対して示す、寸分の狂いもないプロリズムと敬意のポーズだけだ。
「……ジフン。日本というサタンの地で、小さな雑音が騒がしかったようですね」
「取るに足らない清算作業です。すべて計画通りに進んでおります」
ジフンは母を車内へと誘い、ドアを閉めた。防音ガラスによって遮断された車内には、ほのかな白檀の香りと、静寂だけが満ちていた。車体は滑らかに加速し、朝靄が立ち込める高速道路へと滑り出す。
「日本の『タマル《《聖血| せいけつ》》教会』に対する解散命令は無事に発出されました。メディアは歓喜し、弁護士どもは抱き合って涙を流しています。……彼らが満足して古い脱ぎ殻を突いている間に、日本法人が抱えていた法的負債のすべては、解散という名のゴミ箱に放り込みました。資産はすべて我々の手中にあります」
ジフンは膝の上のタブレット端末を母に見せた。そこには暗号資産、プライベートバンク、そしてドバイとシンガポールを拠点とする、オフショアファンドへ移転完了した、数千億円規模の資産流動グラフが映し出されていた。
マザー・ハンは、深く落とされた本革シートに背を預けたまま、満足そうに目を細めた。
「よろしい。あの島国の住民は、原罪を負ったサタンの仔……我らの地上の天国を建てるための『資材』です。骨の髄まで吸い尽くし、最後は自ら進んで犠牲になったのだから、神の摂理は完璧に果たされたのです」
「お母様。次なる拠点は、すでに準備が整っております。ドバイを中心に、中東全域へとネットワークを拡張する計画です。日本という小さな島での経験は、我々にとって貴重な『テストケース』でした。本番はこれからです」
マザー・ハンはうなずいた。彼女の口元に、わずかな微笑みが浮かんだ。それは慈愛の微笑みではない。勝利を確信した者の、冷徹な微笑みだった。
「ええ、ジフン。私たちの仕事は、まだ終わっていない。いや――永遠に、終わらないのです」
車は朝日に照らされる高速道路を、どこまでも進んでいく。