水無瀬 弥生 / 第23話
第12章:偽りの勝利
薄暮の街に、冷ややかな雨が降り続いていた。濡れたアスファルトは街灯の光を鈍く乱反射させ、行き交う人々の傘の波を無感情に映し出している。雨音は街の喧騒を吸収し、すべての音を同じようなトーンに均してしまう。怒りも、歓喜も、絶望も、すべてが等しくかき消される。
テレビ局の街頭大型ビジョンには、太い赤文字のニュース速報が躍っていた。
『【速報】『タマル《《聖血| せいけつ》》教会』に対し、東京地裁が解散命令を発出。宗教法人格を剥奪』
アナウンサーは劇的なトーンで、あたかも長年にわたるカルトとの戦いに、正義が大勝利を収めたかのように語りかけていた。画面には教団本部の看板が撤去され、「お母さま~」と叫ぶ映像や、街頭で涙を流しながら「勝利」を叫ぶ、被害者連絡会の弁護士たちの姿が映し出されている。彼らの目には涙が溢れ、声は歓喜に震えている。
世間はそのニュースに歓喜し、ある者は正義の実現に酔いしれ、ある者は胸を撫で下ろしていた。SNSでは「ついに終わった」という言葉があふれ、人々は互いに祝福し合っている。彼らは、自分たちが「何か」を終わらせたと信じている。
だが、その熱狂の渦から遠く離れた高層ビルの最上階で、ガラス越しに下界の喧騒を見下ろす男にとっては、そのすべてが滑稽な人形劇に過ぎなかった。
《《한| ハン》》 《《지훈| ジフン》》は、高級シングルモルトが注がれたグラスを静かに傾けた。氷がカランと澄んだ音を立てる。その音は、下の階で鳴り響いているはずの歓声とは、まったく別の周波数で響いている。
「日本人は本当に扱いやすい」
ジフンの唇に薄く浮かんだのは、冷笑以外の何ものでもなかった。彼の目には下の街の光景が、まるでアリの巣を観察するかのように映っている。彼らは騒ぎ、叫び、喜んでいる。しかし、彼らは自分たちが何を喜んでいるのか、本当には理解していない。
『宗教法人解散命令』
――それは、日本のメディアや国民にとっては、教団の「壊滅」を意味する巨大な出来事のように見えた。だがジフンと教団幹部にとって、日本法人などというものは、当初から使い捨てるために用意された「脱ぎ殻」に過ぎない。彼らは何年も前から、この瞬間を見越して準備を進めてきたのだ。
日本という国家から「宗教法人」としての免税特権や法的肩書を剥奪されたところで、何が変わるというのか。彼らが数十年かけて吸い上げた数千億円、数兆円規模の資産は、すでに日本の法的な管轄権が及ばない海外の投資ファンド、スイスのプライベートバンク、そして高度に暗号化されたブロックチェーン上の分散型ウォレットへと完全に移転されている。
日本法人の破産や解散は、巨大な国際マネーロンダリング機構における、単なる「予定通りの損金処理」であり、法的な債務をすべて、日本法人という箱に押し込めて潰すための、完璧なトカゲの尾切りだった。
「法人の解散? 結構なことだ。それによって我々は、日本政府に対する納税義務も、被害者への賠償義務も、すべて法的に『消滅』させることができるのだから」
ジフンは端末の画面に目を落とした。そこには、すでに東南アジアと中東に設立された新たな事業体の口座群が、何事もなかったかのように膨大な資金を運用し、利息を生み出し続けている現実が示されていた。
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ソウル市郊外、小高い丘の上に位置する拘置所の面会室。
アクリル板の向こう側に座っていたのは、教団の初代創始者であり「聖母」と呼ばれる老女、マザー・ハンだった。
彼女は脱税と特定背任の罪で韓国検察に逮捕され、懲役2年の実刑判決を受けて、短期収監されていた。だが、緑色の囚人服を纏ったその老女の姿に、敗北者の惨めさは微塵もなかった。隙なく切り揃えられた白髪、深く刻まれた皺の奥で光る鋭い眼光。彼女の全身からは、数万の信者を狂気と死へ追いやってきた不気味な聖性が、異様な熱量となって立ち上っていた。
面会に訪れたジフンに対し、マザー・ハンは深く、かすれた声で笑った。
「ジフン……韓国のサタンどもは、私を閉じ込めた気でいるようだね」
「お母様、お体は大丈夫ですか」
ジフンは形式的な言葉を口にしたが、その瞳は温度を持っていなかった。
「体の心配など不要です。ここの刑務所所長は親しい信者です。この懲役2年など、何の意味もない。数兆円の神の資産を守り抜き、韓国のサタンどもに永遠の呪いを刻むための……安すぎる『滞在費』に過ぎません。」
彼女にとって、この収監すらも完璧に計算されたパフォーマンスだった。
「聖母が国家権力によって不当に迫害されている」というストーリーは、末端の信者たちの狂信をさらに強固なものへと陥れる。日本の支部が閉鎖されようとも、地下へと潜った信者たちは「聖なる試練」に耐えるため、さらに過酷な労働と自己犠牲を進んで行い、裏ルートで資産を捧げ続けるのだ。
「『聖父』ハン・デソンが教典に遺された通り、サタンの国の者どもから奪い尽くすことが、我々の神聖な義務。私がここから出る頃には、日本の法制度は完全に骨抜きになり、お前が構築した新しい暗黒のシステムが、世界を覆っているでしょう」
ジフンは静かに頷いた。
「ええ、お母様。すべては計画通りです」
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同じ頃。東京・歌舞伎町の雑居ビルの片隅にある、看板のない小さな探偵事務所。
警視庁を辞職した元刑事・《《城島| じょうしま》》は、ブラインドの隙間から、雨に濡れる歓楽街の街頭ビジョンのニュースを見上げていた。解散命令の速報に沸き立つ街の風景。人々は傘を差しながらも、顔を上げてビジョンを指さしている。彼らの顔には、安堵と興奮が混ざっている。
だが、城島の顔には一切の晴れやかさはなかった。彼はこの「勝利」の裏側にあるものを見ている。
彼のデスクの上には、警察を去る際に持ち出した極秘資料の写しと、1人の少女の死体解剖所見が置かれていた。
《《綾| あや》》、21歳。胃の中に何も残さず、骨と皮ばかりになって息を引き取った少女。彼女の顔写真は、死の直前に撮られたものだ。唇の端に浮かぶあの微笑み。それは彼女が「救われた」と信じていたことの証だった。
「解散命令、か……」
城島は煙草に火をつけ、紫煙を深く吹き出した。煙は、ブラインドの隙間から外へと流れ出し、雨のしずくに溶けていく。
世間はこの「解散」で事件が終わったと思っている。悪は滅び、正義が勝ったのだと信じ込んでいる。だが、長年裏社会の暗闘を追ってきた城島の鼻には、腐敗した肉の臭いが、より一層濃くなって漂ってくるのが分かっていた。本体の資産はまったく傷ついていない。幹部は1人として本当の意味での代償を払っていない。
城島の目が、暗闇の中で獣のように鋭く光った。警察官という「組織の正義」の鎧を脱ぎ捨てた今、彼を縛るものは何もなかった。残されたのは「覚悟」だけだ。
「巨大なシステムが法律の網を抜けて生き残るなら……俺は俺のやり方で、お前たちの『地上の天国』を地獄に変えてやる」