水無瀬 弥生 / 第20話

第9章:食いものにされる者

彼は人間の弱さを熟知していた。政治家は選挙に勝ちたい。官僚は天下りを望む。弁護士は巨額の報酬を欲しがる。それらの欲望を1つ1つ掬い上げ、互いに結びつけることで、彼は自分自身を「不可欠な存在」に変えた。彼がいなければ、この網は機能しない。その事実が、彼に絶対的な安心感をもたらしていた。 「捜査の着手? 解散命令?」 ジフンは窓の外の霞んだ街並みを見下ろした。高層ビルの下には無数の人間が蠢いている。彼らは皆、自分たちの生活に必死で、この部屋の中の会話が自分の人生を左右しているとは夢にも思わない。 「国会でどれほど威勢の良い答弁をしようと、警察庁のトップに天下り先を用意し、検察幹部の弱みを握り、与党幹事長の懐を温め続けている限り、法の手が届くのはせいぜい末端の支部止まりだ。幹部の身柄にも、海外へ逃がした数百億円の核心資産にも、指1本触れさせることはない」 彼らの弁護団を構成するのは、かつて検察庁のトップを極めた「ヤメ検」の重鎮たちだった。法制度の隙間を知り尽くした彼らは、教団の資金流出を「信者の自由意志による献金」と言い換え、偽装結婚を「異文化間の愛の結実」とすり替える論理を幾重にも構築していた。彼らの言葉は、裁判所の判決文の中で、まるで最初からそうだったかのように正義として刻まれる。 法律という言葉の網は、弱者を縛り上げるためには鋭利な刃となるが、巨大な資本と権力を抱えた者たちの前では、柔らかく形を変える絹糸に過ぎなかった。 港区の閑静な住宅街に佇む、看板の出ていない料亭。 数畳の和室には、芳醇な松茸と出汁の香りが漂っていた。床の間には掛け軸がかかり、庭園の水打ちされた青々とした苔が静寂を際立たせている。この場所に足を踏み入れる者は、皆、何かを「得る」ために来る。何かを「与える」ために来るのではない。 上座に腰掛けているのは、与党の大物政治家・国家公安委員会の元委員長である《《大河内| おおこうち》》だった。70代半ばのその顔には深い皺が刻まれ、一見すると好々爺のような温和さを漂わせているが、その眼光は欲望と老獪な打算で濁っていた。彼の手は、普段は演説台の上で力強く振り上げられるが、今は妾の胸を優しく包み込んでいる。その対比が、彼の二面性を如実に物語っていた。 その向かい側には、教団の顧問弁護団のトップであり、元最高検事察庁幹部の弁護士・《《神谷| かみや》》が静かに盃を傾けていた。彼の指先は、かつては起訴状を書いていたが、今は契約書を書く。彼にとって、その2つは同じ作業だった。 「神谷君」 大河内が低く濁った声で口を開いた。その声は、酒と煙草と権力で擦り切れた、重い音だった。 「世論の風圧が強い。今回の少女の孤独死は、少々見栄えが悪すぎたな。警察としても、ポーズだけでは済まされない段階に来ている」 神谷は薄い唇を微かに歪め、静かに酒を注ぎ足した。彼の動作には一切の無駄がなかった。 「ご心配には及びません、先生。警察が着手するのは、あくまで世間の目を逸らすための『地方支部のガサ入れ』と、末端信者数名の任意取り調べに限定させます。本部のサーバーデータは先週までにすべて暗号化し、雲の上のサーバーへ退避させました。法務省内部のラインも押さえています。解散命令の請求が出たとしても、最高裁まで持ち込ませて数年間は引き延ばす。その間に、すべての資金構造は新会社へと移管されます」 大河内は盃を干し、満足そうに鼻を鳴らした。 「結構だ。……ジフン氏が言っていた『海外ファンド』の件、我が派閥の若手議員たちの政治資金パーティーのパーティー券という形で、約束通り処理されるのだろうな?」 「もちろんです。先生方のお手元には、一切の傷がつかない形で還流いたします。マザー・ハンが提唱する『サタンの国からの搾取』という教理は、先生方にとっては『永続的な政治資金の湧き水』に他なりません。先生は何も汚していない。ただ、善意の支援者が、たまたま先生の政治活動に共感しただけの話です」 神谷の言葉は、巧みに作られた絹の網のように、大河内の心を包み込んだ。彼は、その網の中にいることを自覚しながらも、そこから抜け出そうとは思わなかった。なぜなら、網の中は暖かく、安全だったからだ。 2人は静かに目を合わせ、示し合わせたように口元を緩めた。その笑顔は、互いの欲望を確認し合う合図だった。 彼らにとって少女の命など、この巨大な政治と資金の循環システムの摩擦係数にすらならない、ただの数字の塵に過ぎなかった。彼らは彼女の名前を知らない。知る必要もない。彼らが見ているのは、数字とポジションと、自分たちの未来だけだ。 どれほど純粋な悪意であれ、どれほど凄惨な悲劇であれ、権力という巨大な防波堤の内側に入り込んでしまえば、すべては「調整可能な現実」へと変換されていく。善悪の境界線は等しく泥の中に沈み、ただ「生き残る者」と「食いものにされる者」の2つの種族だけが、都市の闇の中で蠢いていた。

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